2002.1.13、 神戸教会、神戸教会週報、降誕節第三主日
(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(阪神淡路大震災から7年、神戸教会牧師退任まで3ヶ月)
ヨブ記 5:8-27、説教題「装いの彼方」
ヨブ記3章には、苦難を受けて「自分の生まれた日を呪う」ヨブの姿が記されていました。
その言葉の激しさが読者の胸を締め付けます。さて、一つの仮定ですが、もしこのヨブの傍らに自分が居たらどうするでしょうか。
ヨブ記はドラマです。このドラマの作者は、相当に深い読みを持っています。
この「呻き、…わななく。」(3:24-26)ヨブの傍らに最も悪い例を登場させます。
そして、それがもしかしたら「あなたではないか」という問いを読者に与えているのです。4章ー5章はこうして始まります。
2節「あえてひとこと言ってみよう。」(直訳では「言葉を試みる」)。
”あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものを言わずにいられようか。”(ヨブ記 4:2、新共同訳)
「試みる」は「慣れている(サムエル記上 17:39、ダビデが鎧兜に慣れていなかった)」という意味です。
ヨブの友人エリファズは、いわゆる「意見を述べること」に慣れているのです。
12節で彼はそれを「忍び寄る言葉:神秘的体験」だと言います。彼は、特別な宗教経験、人生経験から得た世界観、人生観、宗教観、哲学・神学を持った人なのです。
そして、ヨブも「あなたは多くの人を諭し」と言われているように、当たり前ならば、人生の教師・助言者なのです。そのあなた(ヨブ)が「弱音を吐くとは何事か」と叱咤激励します。そして4章7節から彼の意見が述べられます。それは、善人は救われ悪人は滅ぼされる、だからそのことをこそ悟れ、という因果応報の思想に基づいた勧めです。
「人は神の前に正しくありえない」(4:17)
”「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。”(ヨブ記 4:17、新共同訳)
「私ならば、神に任せる」(5:8)
”わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう。”(ヨブ記 5:8、新共同訳)
「神は貧しい人を剣の刃から救い出してくださる。だからこそ弱い人にも希望がある。見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。」(5:15-18)
”神は貧しい人を剣の刃から、権力者の手から救い出してくださる。だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。”(ヨブ記 5:15-18、新共同訳)
ここで問題なのは、「宗教は逆説である」という逆説を論理化することまでを含めて「論理」が語られていることです。
「論理」というものは一般化されている故に、自己完結性を持っています。
相手が、現にそこで苦しんでいるのに、一般論(たとえそれが正しいことであっても)を滔々と述べることができる神経にはホトホト疲れます。
こんな場面が日常にいかに多いでしょうか。
苦悩する者を疲れさせる発言とは何であるのか。これは極めて現代的な問題です。
(このテキストから、私は何よりも、自分の日頃の牧会・伝道を反省させられています。ひとえに牧会者は、赦されていることを信じる以外に居場所がありません。)
ヨブ記はその意味で、人に語る書物ではなく、自分の内省として読む書物です。
神について体系を与える「律法」のような神学書ではなく、「生き方を問う文学書」なのです。
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