ヨブ記を再び読む《12:1-13》(2002 礼拝説教・週報)

2002.2.10、 神戸教会、神戸教会週報、降誕節第七主日

(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任まで2ヶ月)

ヨブ記 12:1-13、説教題「分別が世界を救うのか」

1.ヨブ記の概説的なこと

 旧約聖書39巻の18番目の書物。新共同訳 p,775-833、58頁の分量。42章区分。
 旧約聖書の分類では「諸書(詩歌と教訓・文学書)」の類型に含まれます。
 執筆年代は、紀元前400年頃(原資料に後世の挿入部分がついている)。

 文学構造は、1~2章が古い民間伝承を元にした散文のヨブ物語。義人ヨブは二度の過酷な試練になお神への讃美を保った。しかし……。
 3~27章は詩文で、ヨブと3人の友人との対論。
 28章は「知恵」についての言葉。
 29~31章はヨブの最終弁論。
 32~37章は後世の挿入(31章までを総括したエリフの弁論)。
 32~42章は結論部分、神の答えとヨブの応答。

2.思想内容

 宗教を限りなく功利的な役割から捉える因果応報の教理の通俗性を破る討論が内容。

 義人の苦難の不条理を個別的・実存的に問いつつ、なお「苦難」を一つの立場として固執するヨブの根底を、逆に問い返し、無知と被造性の知覚に立ち返ることに救済を示す書物。

 現代にヨブ記を読むことの意義。

 宗教を功利的に捉えることは、いつの時代にも俗な力を持っている。

(神の名でアフガンへの報復戦争を是認し、また神の名で自爆をする)

 しかし、それが宗教なのか。

 そこを克服することは「宗教」の究極の課題である。

 苦難が魂を「神」へと向けさせること。

 現代の世界を破局に向かわせしめている「人間中心」に対して、苦しむ者からの問いを受け、共存、その根底にある徹底した被造性の理解を深めることの大切さをこの書物は示唆している。


3.(今日の箇所)12章は、友人ツォフォルに対するヨブの反論。

 剥き出しの「神」論争が展開される。

 友人はヨブに「神に向かって手を伸べよ…(11:13)…神に逆らう者の目は霞む(11:20)」とします。

 それに対して「その神に従う無垢な人間が(何故)物笑いの種になるのか」(12:4)と反論します。

 友人の分別の知恵(12節)に対して「分別は神と共に」(13節)の反論は、一見「神」の土俵の引き合いに見えます。

 しかし、ヨブにとって「神」は自明ではありません(苦難の中で見えなくなっています)。

「しかしなお」「にもかかわらず」というヨブ自身の逆説が秘められて、「隠れた神」に分別を求めます。

 逆説を秘めた思慮は、世の分別とは、軋みます。

 ヨブの辿った道は険しい道でした。次の言葉を思い起こさせます。

聖書は人々に神の無力さと苦難を指示している。”(『抵抗と信従』ボンヘッファー p.242、ボンヘッファー獄中書簡集、新教出版社 1964、村上伸訳)

 ヨブの苦難が、自明の神の無力さを知らせ、苦難と共にあるという逆説として、神への切なる求めを引き起こすところに、私たちは信仰を呼び覚まされます。


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