2008.12.24 執筆、「福音と世界」(新教出版社)2009年2月号 原稿
(出版社での推敲前のものと思われます)
(単立明治学院教会牧師、日本基督教団教師、健作さん75歳)
はじめに
「教えることは出来ないが、学ぶことは出来る」という。僕らもそうやって学んできた。
このたびの本誌の企画の一番の目的は「世代間の対話と継承」である、とは編集者の言葉。若い世代からの「対話」を期待して、いささかの経験を語りたい。分かり易い言葉で、自分が生きた時代を語りたいという思いはある。しかし如何にも貧弱な「語り」しか出来ない自分の限界におののかざるを得ない。編集者の私へのテーマは「戦後復興、高度経済成長、そして学生運動(1951−1973)」であり、特に「日本基督教団闘争とは何であったか」を焦点に据えて、ということであった。
私は咄嗟に躊躇した。まず、私は「闘争の担い手」ではない。「闘争が何であったか」は担い手が語る以外にない。さもなくば歴史家が史料に基づき彼の研ぎ澄まされた歴史観によって正負の評価を語るべきであろう。私は歴史家ではない。闘争の担い手自身がすでに言葉を残しているが、それは厳しい言葉である。「教団闘争」と平行して闘われた「東京神学大学闘争」の「全学共闘会議解散宣言」(1971『暁声』2号)を見ると、「今日の教会がなすべき課題は……無自覚的な自己増殖的教会形成、正にイデオロギーとしての安直な福音売買、伝統的教義への倒錯的しがみつき、これらに終止符をうち、ただちに徹底した思想的視点を自らに課することである」とまとめ、その課題を「思想の生誕→歴史的転回を把え還し、思想を生きた言葉として表出する関係構造の認識を獲得していかねばならない」としながらも、それが果たし得なかった敗北を認め、「東神大教授会、それを許すキリスト教会、国家権力、……への<告発>として、なによりも自らへの<告発>の書としてここに提出しよう。」と述べている。
自己への<告発>を残す、これは言うなれば運動を担う者の永遠の課題を示していると言えよう。「教団闘争」の方は延々と続けられ、為し崩しではあるが、今も教団の歴史の細部で闘われていると言えなくはない。残念ながら、歴史家がそれを語るまでに至っていないのが現状である。とすれば、「問題提起」を受けた側が、自分の受け止めた範囲で、その共鳴部分と自己への<告発>の言葉を語るほかない。いわゆる「万博キリスト教館出展阻止」に始まる「教団闘争」の総括的史料ないし記録は教団側ではまとめられていない。すぐれた資料『日本基督教団史資料集』全5巻(1997-2001)は1968年までの資料についてはよくまとめられていて、その時代を語る第1級の資料である。「闘争時代」の前史をも含めての「問題提起」を私が受け取っている限りで6点取り上げてみたい。これらが次世代に受け止められれば幸いである。
1.「農」からの問題提起
1950年代から1960年代、教団の伝道の主軸は「農村伝道」であった。「農村伝道専門委員会」は多額な(主として海外教会からの資金)予算をもち広範な活動をした。それが1960年代の後半、日本の重工業化が進み経済と人口は都市中心に移ってゆくと、教団の伝道方策が時代に迎合して「団地伝道中心主義」となってゆく。これに抗議する文書がある。「この国の力を計るバロメーターは、食料問題にあります。…農村人口の稀薄化や農村の都市化は…農業の退歩を示すものではなく、新しい農業経営への移行を示している…人間生活の基本となる食料の問題と農村社会への伝道の重要性…の意見に…傾聴くださり伝道方針を再検討して下さい」(1966、東北教区農村伝道委員会)。
この問い掛けは重要である。食料自給率38%の日本の現在から見ると「農」から人間への視点を考える問題提起が一貫して教団の辺境から叫ばれ続けられていることは重い。そもそも戦前、賀川豊彦・杉山元治郎らによって為された「農民福音学校」の系譜は、都市教会とは別に活きていて、農村からの問題提起の源流となっていた。今は「農村伝道神学校」「アジア学院」、また地方の辺境の「農村教会」でこの「提起」は担われている。食料・食品の安全・農業・畜産・環境・自然からの問い掛けによる「命」の問題、さらには南北問題と言われた経済的格差の問題、新自由主義がもたらす絶対的貧困の問題が宣教課題として、教会で、教団で、世代間で共有されねばならない。筆者は農村教会の出身であるが、以後ほとんど都市教会の牧会に携わった者として、「負」の負い目を担い続けている。
2.「戦争責任告白」からの問題提起
1950年代から1960年代は、教団では1948年からの「新日本建設運動」に陰りが見え、1959年の宣教百年伝道を「行け、キリストと共に」の標語で行ったが、行き詰まりがあり、1960年、伝道の「機構改組」が為され、農村・職域・青年・婦人の専門委員会が作られ、すでに1955年に設置されていた「宣教研究所」を中心に50年代の伝道への反省が行われた。
「宣教基本方策」「宣教基礎理論」「キリスト者の社会的行動指針」などがここで生み出され、広範な「宣教」概念を中心に活動のシフトに変化がもたらされた。1955年「安保条約改訂問題に関する声明」、1962年「憲法擁護に関する声明」も「宣研」から出されている。どうも後の教団の潮流の二分化はこの当たりに根を持つのではないか。
この間、H・クレーマー(1960)が招かれ、「協議会」では一定の教会観から言葉によって布教をする在り方が反省され、信徒を中心として、この世の問題を共に担う教会の在り方への「体質改善」が求められた。さらに、J・ベネット(1950)、M・スコット(1957)が招かれ、職域伝道が集中的に行われ、関西労働者伝道(1956)が発足した。他方この時期、朝鮮戦争(1950)以降、政治の反動化が目立つ中、キリスト者平和の会(東京1950、大阪・兵庫 1958、京都 1959)の運動が起こり、原水爆禁止世界大会(1955)の平和への熱意の広がりやエキュメニカルな交わりの中で、アジア・中国・韓国からの日本帝国主義の加害者責任が問われた。
1966年、夏期教師講習会で若手教職からの意見により、それを受けて準備がなされ、第14回教団総会で「戦争責任告白」議案が可決、翌1970年、鈴木正久・教団議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が出された。この「告白」の評価すべき点は、アジアの教会との和解が可能になったこと、1954年の「信仰告白」の非状況性を補ったこと、教団の成立を「あやまち」と認めたことなどである。しかし、当時若手の一人としてこの過程にかかわった筆者が、まず問われたことは、罪責のうちに沖縄への本土の加害責任が意識されていなかったこと、それと「告白」の文言が神学的であるがゆえに、観念性が伴い歴史的現実との乖離が起きていることなどであった。
例えば「地の塩」「世の光」「見張り」の使命などを怠ったと表現しているが、現実は戦争への積極的協力であり、こんな美辞麗句ではすまされない、とは今は亡き教会史家・土肥昭夫氏の言葉だった。また神学的言葉の完結性が「告白」を行動へと押しやる力を鈍らせたことも事実である。「戦責告白」の具体化として建設された「原爆孤老ホ−ム」清鈴園の実践は1970年代「教団闘争」の戦責批判に耐えて、よく生きている部分であると思う。「戦責」の功罪をどのように評価・受容・実質化するかは、今でも投げ掛けられ続けている問いである。その存在と意義を全く認めないか、反対である教会人とどう対話するかを含めての課題である。教団の肢を自覚する所以である。
3.赤岩栄の問題提起
赤岩栄は1964年『キリスト教脱出記』を出版した。これが「教団信仰告白の限度を超えたものとして許されがたいもの」と教団常議員会は判断(1966)し、教団教師を自発的に辞任するように勧告した。審議後1か月で赤岩が死亡し、問題は棚上げされた。教団側から言えば、このようにしか対処出来ないのがその時点での現状であった。しかし、そこで言われていることはキリスト教止揚の問題であり、現代における教会的・神学的問題を根源的に問い直す問題であった。キリスト教はこの問いを避けては、現代への思想的発言を失するであろう。筆者はその当時、赤岩栄に私淑する会員の多いK教会に赤岩栄の紹介で牧師として赴任した。この問題提起が現場の教会の宣教と牧会ではどのように受け止められるかに、大変苦慮し対応したが、根源的問いとしては、抱き続けている。
キリスト教止揚の思想的継承を赤岩栄に最も近く提唱しているのは『イエス逆説の生涯』(1999)の著者・笠原芳光である。彼は「職業宗教家、つまり制度宗教でめしを食うことはまちがったことだと思うようになりました」(『キリスト教の戦争責任』p.193)とかつて述べた。私は、敢えて、その道を選んで、日本基督教団の肢にとどまり続けている。
4.聖書学からの問題提起
1962年、田川建三『原始キリスト教史の一断面 − 福音書文学の成立』が出版された。西中国教区教職研修会の講師として来られた同氏に初めて出会い、その問題提起を衝撃を持って受けとめた。神学校(1958卒業)で新約専攻であったので「様式史」「編集史」「非神話化」などの概略は知っていた。しかし、聖書釈義はおおむね神学的釈義を方法としていた。いわば聖書は「どこをとっても金太郎飴」同様、神学的メッセージをくみ取る習練にいそしんでいた。しかし、一つの文書をその歴史的成立に従って読み、神学的観念をそこに持ち込んではならないことと、マルコの文学としての独自性をこの書は教えてくれた。以後、日本の聖書学者の成果を吸収するのに余念はなかった。そうして、この書は私の聖書の読み方を変えた。
5.反万博キリスト教館闘争からの問題提起
日本万国博覧会は大阪で1970年 3月から開かれた。国家と企業の祭典である。それは高度経済成長期、アジアへの企業進出を推進する祭であった。そこに少しでも緩和の要素を入れるために宗教館出展の呼び掛けが主催者からあり、キリスト教はカトリック・プロテスタント(NCC)が一致して出展することになった。「戦責」で対立があり、表面上は「五人委員会」の収拾で何とか形を保った教団をまとめるため、鈴木正久議長は「万博キリスト教館出展」議案が一度否決されたものを無理して再度採決通過させたのが1968年の第15回総会であった。
教団政治上で事柄があいまいにされたことを根本的に問うたのが「教団闘争」の発端であった。1969年春このことは関西の諸教区総会で激しく討論された。鈴木議長はその 7月ガンで亡くなられた。議長の後を継いだ飯清(副)議長と常任常義委員会との間で徹夜20時間の討論集会がいわゆる「9・1、2集会」である。学生を中心に、闘うキリスト者同盟・70年の会・関西の自立的キリスト者連合・自立的牧師連合などが結集する。結果は11月に臨時総会を開くことになったが、これも問題提起者(学生)の主導で、議長総括だけの討論集会になった。この闘争の背景は、世界的な体制や権力や国家にたいするトータルな問題提起をするスチューデント・パワーが日本にも移って、大学闘争になった。最も激しい闘争は東京大学であった。それぞれ個々の闘争のきっかけになった問題はあるが、根源的問いが闘われたところに特徴がある。東京神学大学闘争は万博を支える東京神学大学教授会の「正統的信仰の擁護」に対して学生の全共闘を基盤とする闘争として展開された。学生のバリケード封鎖に機動隊を導入して正常化を計ったことで、半数近い学生が学園を去った経緯がある。結果的に形の上では学生の敗北に終わった。冒頭に総括を乗せたように、その線に沿って40年経った今もその問題提起を担い続けている人たちの存在は重いと思う。私は、地方教会の牧会の現場で間接的に問題を咀嚼するのが精一杯であり、闘争の表の経験はなかった。しかし、出来る限り問題提起に寄り添って、地方教会の宣教と牧会からの対話を試みてきた。
6.教師問題からの問題提起
教団闘争で激しくまた根源的に問題にされたのは「教師とは何か」という教師問題である。教団は国家の介入で、教師(牧師・伝道師)に、正教師(聖礼典の執行可)、補教師(聖礼典執行不可)の二種(二重)教職性を維持してきた。これは、国家主導の教団成立による教師の階層性である。教師が階層ではなくて万人祭司の思想における役割に徹する制度をどの様に実現するかが問題であった。現実に、地方の小さな教会は財政の関係で新卒の補教師しか招けないことが続き、聖礼典の執行が慢性的に出来ないままのことが自明の理になっている事柄を問い返す問題提起である。補教師受験を拒否して、信徒のまま教師に準じて教会の招聘を受ける人が出てきた。正教師の受験拒否が多くの補教師によって行われた。H教区では、補教師の聖礼典執行をその教会の自主決定にゆだねる決議をした。教会の決定で、補教師による洗礼が執行され、他教会がその転籍の際、再洗礼を実行するという事例も他教区では発生した。これらの規則違反を「法」の秩序へと整合させるのか、問題の本質にまでさかのぼって解決するのか。そもそも教師とは何なのか。学習、協議、討論が行われてきた。『三委員会連絡会報告書』(1990-1996、日本基督教団教師委員会・教師検定委員会・信仰職制委員会)は基本的学習資料であろう。私自身が、それまで無自覚な「正」教師であることを問われながらも、まだまだ学習を重ねていきたいと思っている。
おわりに
編集者から与えられた年代の区切りは1951-1973年である。「戦後復興、高度経済成長、そして学生運動」がテーマ。この時代、自分はどのように生きてきたのか。1951年はサンフランシスコ条約、日米安全保障条約調印の年。私は田舎の高校3年生。貧しい農村では「復興」という実感はなかった。取って付けたような民主主義と平和を教えられたと思ったら、もう朝鮮戦争で、信頼していた高校教師はレッドパージ。
1958年の神学校卒業までは、バイト、破防法・警職法反対闘争のデモ、ギリシャ語/椎名麟三/バルト/ブルトマン・非神話化、聖歌隊、などで過ごし、最初の赴任が広島N教会。
原爆の悲惨を胸に刻み、次は呉Y教会。初めての幼稚園新米園長、軍艦旗翻る呉港に唖然、原水爆禁止運動、個人誌「指」を教会の皆さんと購読。60年安保はやっと購入した中古テレビで眺めた。
次は岩国I教会。ベトナムに平和をと叫び、反戦米兵支援、幼稚園園長兼園バス運転、自閉症児に出会って人生観を変え、騒然とした岩国から初めて沖縄の米軍基地の凄さを知った。1973年までの時代である。
教団は名立たる西中国教区、高倉徹・杉原助・藤田祐・山田守・榎昭三・大野昭・筒井洋一郎・小林平和に学ぶこと多き期間であった。
この論考の資料として『日本基督教団史資料集 第5篇 日本基督教団の形成(1954-1968)』(1998 宣教研究所)に頼ることが大きかった。貴重な資料である。
執筆者の堀光男氏の「あとがき」を読み、同氏と戒能信生氏の20年に渉る大変な作業、しかも執筆者の名ではなく「宣教研究所 教団史料編集室」による仕事への「ご奉仕」であることを知り頭が下がった。特に感謝したい。「教団闘争」「神学大学闘争」は『暁声』1-2号以外に、史料が手元にないので、『キリスト教の戦争責任』森岡巌・笠原芳光(1974 教文館)を参照した。
(単立 明治学院教会牧師)