2008.12.28、明治学院教会(138)降誕節 ①
(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)
アモス 5:4-13
”わたしを求めよ、そして生きよ。”(アモス書 5:4)
1.アモス書は激しい預言の言葉を語っています。
5章は神の裁きの託宣です。
今から2800年前、北イスラエル王国のヤラべアム2世は政治手腕のある人であり、戦争のない時代、国の内外は繁栄の空気が漂っていた。しかし、それは表面のこと。現実は、不義不正を行う支配者の横暴は目に余るものでした。
特に、宗教は繁栄を祈り祭りを行う国家祭儀となっていました。
”わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。……お前たちの歌の騒がしい音をわたしの前から遠ざけよ”(アモス書 5:21-22、新共同訳)
本来、イスラエルの祭りは、細かい規定がレビ記にあるように(1−7章)「和解・贖罪・賠償・穀物・葡萄酒・随意の捧げ物など」、神との関係での「悔い改め・感謝・執り成し」が中心でした。
しかし、その時代は宗教が変質して”生産性向上”を祈る祭りが第一になって、”自己拡張”の祈りがなされていたのです。
人々が動員されたベテル 、ギルガル、ベエルシバ(アモス 5:5)の国の祭壇では、王室の楽隊が繰り出されて、騒がしい音を出していました。批判をすれば白い目で見られます。
「賢い者は沈黙する」。こういう時代に「祭り」に”否”をいうことは大変なことでした。
「お前たちは弱い者を踏み付け……お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り 町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」(アモス書 5:11-13、新共同訳)
2.アモスはテコアの牧者の一人でした。エルサレムから南に15キロの小家畜の飼育以外には特に産業を持たない寒村の出身です。
その彼が主(ヤハウェ)に召されて、弱者の抑圧の上に安住していた支配階級に民族の全面的絶滅を預言する言葉を語るのです。
晴天の霹靂でした。本来、祭りは民族学でいう「ハレ」の日です。「ケ」の日常の労働との緊張関係にあります。イスラエルには「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンがあるのは、争いがあって食物の豊かな家にまさる。(箴言 17:1、口語訳 1955)」のように、民族の共同のあり方の根底には、分かち合う日常というものがありました。
日常の再創造としての祭りは大事ですが、それと切り離されて、貧しい者を踏みつけたままの祭りは本来の祭りの精神を失っている。
3.祭りの根本は「わたしを求めよ、そして生きよ(アモス書 5:4)」、「主を求めよ、そして生きよ(5:6)」、「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる(5:14)」。
”わたしを求めよ、そして生きよ。”(アモス書 5:4)
「わたし(主)を……」と一人一人の心の内に呼びかけ生き方の変革を促し、「悪を求めるな」という一般的呼びかけを含めて、祭りがあります。
「我々が神を求めるに先立って、我々を求める神がある」(リュティ)。
ここに祭りの本質がある。喧騒の中で、われわれはこの訴えを、果たして聴きうるであろうか。心を澄ませたい。
4.先週、私はキリスト教関係の雑誌から頼まれて、1970年代の「万国博覧会反対闘争」に関して書きました。
高度経済成長期、日本の企業はアジアに進出し、安い労働力を使って経済侵略を「万国博覧会」というお祭りで景気付けました。
東京神学大学では、厳しい万博反対闘争がもたれました。
一昨日の新聞記事「非正規8万5000人失職(12月26日、朝日新聞夕刊)」を読みながら、根っこは「万博」に繋がっていると感じました。
138_20081228◀️ 2008年 礼拝説教