2009年1月4日、降誕節第2主日、
明治学院教会(139)新年礼拝
(牧会50年、明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)
アモス 5:16-27
1.旧約聖書は、ユダヤ教の聖典である元来のヘブル語原典では「律法」(トーラー)、「預言者」(ネビーイーム)、「諸書」(ケスビーム)と3部になっている。
時間や歴史を軸に考えると、律法は”時”を超えた「神の言葉(法)」。
「預言者」は”時”に向き合った「神の言葉(審きと叱責、慰め」と言える。
「諸書」は”時”の中での「神の言葉(文学・詩歌)」と言える。
「預言者」は”律法”が”時”の軋みで曲げられていく背信のイスラエル民族を「神の言葉を預かる」者が、それを糺(ただ)してゆく葛藤の軌跡であり「歴史」その者である。
ギリシア語に訳された「七十人約聖書」では、「預言者」の前の部分を「歴史書」としている。
2.預言者の中で最も早く「記述」されたものが「アモス書」。
紀元前750年頃。
北イスラエル王国のヤラベアム2世(BC786-745)の時代、王をはじめとする支配層・富裕層の堕落、不正、不義は目に余るものがあった。
イスラエルの社会生活の基盤の崩壊の危機である。徹底した神の審判の託宣を語ることが救いであった。
3.本書の構成は
(1)6つの隣国及びイスラエルへの審判(1-2章)
(2)イスラエルに対する罪の指摘(3-6章)
(3)審判の幻(7:1-9、8:1-6、9:1-10)
(4)聖所ベテルにおけるアモス(7:10-17)
(5)主の言葉の飢饉(8:7-14)
(6)結語。罪の赦しと回復の希望(9:11-15)
記録は弟子が残したもの。
貧しい者を抑圧し、搾取すること、寡婦や孤児の放置、裁判のねじ曲げ、計量のごまかし、手段を選ばぬ不当な利の貪(むさぼ)り、賄賂や証人の籠絡(ろうらく)。
テキスト本文を熟読したい。
4.アモスがテコアの牧羊者であることは前回触れた。
モーセ、サムエル、エリヤなどの働きの継承であるが、当時、制度として王国の祭儀的役割を担っていた職業的預言者集団に属する者(例、アマツヤ:アモスを国外追放に追いやる職業祭司)ではないことが、アモスの口から述べられている(アモス 7:14-15)。
5.アモスはイスラエル宗教が、神の選び(出エジプトの救済)に基づく契約の信仰に基礎があることを鮮明にして、この契約が同時に、人間同士の共同体における諸関係の社会法に徹底されていない危機を痛烈に批判した。
イスラエルの選びの思想を、政治・民族主義的に拡大変質し、特権化しようとする支配層の傲慢には、神の審判以外に救いのないことを告げた。
それは同時に「正義を洪水のように、恵みを大河のように」の逆説であった。
”正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。”(アモス書 5:24、新共同訳)
同時代の預言者ホセアは「私が望むものは、誠実な愛であり、犠牲ではない。燔祭よりも、神を知ることである」と述べている。
”わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではない。”(ホセア書 6:6、新共同訳)
6.2009年の冒頭。
新聞の4つの記事を一方の極みとしてアモスを読んだ。
「逃げ場のないガザ(パレスチナ)」
「『過ごす場もない』人々の波、『派遣村』の訴え」
「2008年度 朝日社会福祉賞『アジア学院』へ」
「クビ切らぬため、挑む岡田土建工業」
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