世の光イエス(2008 礼拝説教・ヨハネ・クリスマス)

2008.12.21、明治学院教会(138)クリスマス礼拝

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)

ヨハネ福音書 1:9-14

すべての人を照すまことの光があって、世にきた”(ヨハネによる福音書 1:9、口語訳 1955)

1.クリスマスの季節、キリスト教主義の幼稚園や保育園では、子どもたちが聖誕劇をいたします。

 マリア、ヨセフ、天使、羊飼い、東の博士たち、宿屋。どの役柄も子どもたちは真剣に演じます。

 羊飼いの野宿の場面で、主の御使いが現れて、主の栄光が彼らを「巡り照らし」、彼らが恐れると「恐れるな!見よ、全ての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそキリストである」と宣言する場面は、劇の中のハイライトであります。

 ここの「めぐり照らす」という言葉には意味深いものがあります。くまなく照らし出すという強烈な表現です。

 この言葉は、使徒言行録ではパウロの回心の物語に出て来ます。

”真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。”(使徒行伝 26:13、口語訳 1955)

 サウロとその一行たちは皆、地に倒れます。

2.パウロがめぐり照らされたのは、今までの生き方です。

 律法の実現を自分の力で成し遂げようとした、自己実現の生き方が白日の下に照らし出されたのです。

 私たちは自己中心の姿が照らし出されるのを恐れます。ですから、神の強い光が巡り照らす時、恐れを抱くのです。そこを「恐れるな、救い主が御生まれになった」と逆に切り込むのがクリスマスのメッセージです。

3.知人の信仰者の方は、キリスト教の個人的・人生論的な救済観に極めて批判的であるにもかかわらず、この”個”の在り方を「照らし出し」、深く自分中心という罪・自我・自己完結という「自分の城や砦を最後に守ってしまうような生き方」を破り、破られる経験を聖書の持つ根源性として大事にされていました。

 彼は、みんなの幸せを実現するために、社会の変革を志向してゆく政党の運動にも熱心でしたが、その社会的生を実りあらしめるため、逆説的に実存的在り方を大切にされました。

4.ところが、ヨハネ福音書では単純に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた(ヨハネ 1:9)」とだけ「クリスマスの出来事」を語ります。

 それは自分の暗部を照らし出す光を含んでいますが、ある註解者(ブルトマン)がいっているように、途方もない範囲で、人間の自己理解を可能にしている光です。

 光は見ることを可能にし、「現存在の被照性(ちょっと難しい表現ですが)」を絶えず問うものだ、と彼はいうのです。

5.私は少年の時に「光に包まれた」という経験があります。山の中の星もない夜、闇に独り閉じ込められた時のことです。

 寒気のする恐怖に襲われました。目を閉じ、深呼吸をし、黙想して落ち着きを取り戻そうと観念しました。祈っていたのだと思います。

 しばらくして、目を開けた時、驚いたことに、柔らかな光に包まれていました。目が慣れたと言えばそれまでなのですが、道がボーっとわずかに白く見えて、体で感じる光の体験でした。

 闇の怖さから、解放されるような暖かい光でした。自分の存在の自己理解を包む光でした。

 後々、ヨハネ福音書の「その光はすべての人を照らす」を読んで、その時の経験が蘇ってきます。

 誰もそこから漏れることのない光、神の愛に包まれていることを感謝し、クリスマスを迎えようではありませんか。

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