2008.12.14、明治学院教会(136)待降節 ③
(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)
ルカ 1:46-56 マリアの讃歌
”「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからである。
今から後、いつの世の人も、
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。”(ルカ 1:46-49、新共同訳)
待降節のテキストをご一緒に学びたい。「マリアの讃歌」(ルカ 1:46-56)から三つのことを学ぶ。
1.第一。この讃歌(神を讃える歌)には旧約以来の讃歌の伝統がある。
(1)「ミリアムの歌」
イスラエル民族のエジプト脱出の際、その出来事に神の御手にあったことを最初に歌った女性の歌。マリアの讃歌の原型。
”主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。”(出エジプト記 15:21、新共同訳)
紅海の奇跡へのミリアムの信仰告白がある。
(2)「ハンナの祈り」(サムエル記上 2:1-10)
マリアの讃歌の原型はここにある。
ハンナが子どもを与えられることを願った祈りだが、実はペリシテ人の奢りを打ち砕いた神の御業への讃歌。ペリシテの軍事力によるイスラエル制覇を阻止したのは、神の人サムエル。その物語の最初を彩る歌である。
ルカの「権力ある者を、その座から引き降ろし(ルカ 2:52)」という思想はここから来ている。この思想の流れは、イザヤ「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。(イザヤ 29:19)」に繋がる。
2.第二は「寄り掛からない生き方」ということ。
讃歌の「身分の低い(ルカ 1:48, 52)」という言葉はマイナスの価値ではない。社会的な卑屈を意味しない。逆に救いへの近さを示す。神への謙遜が、人間の尊厳となる。
原語”タペイノス”は48節と52節に2回出てくる。社会的に低い階層の人達を示す語句。ルカ福音書は中間層以上の富める者たちに向けられた書物。富への執着の禁止、富の積極的活用、不正の富を悔い改め、貧しい人への施しが語られる。
例えば、ザアカイの物語。しかし、貧しいこと、虐げられていること、そのこと自身が救いだと、語られている部分がある。金持ちとラザロのお話。貧しいがゆえに救いに入れられる。
”やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。”(ルカ 16:22)
タペイノスの逆説性がよく表されている。
3.第三は「苦しみの日々から救いにあずかる」こと。
マルチン•ルターは「”マリア”のヘブル語の原型は”ミリアム”であって『苦い没薬』という意味だ」と説いた。
ユダヤには、誕生の状況にちなんで子供に命名する習慣がある。とすると、余程の苦難の時、切羽詰まった危機の時に、人生の苦(にが)さを和らげる没薬のように生まれて来た子どもへの名前かもしれない。
”光は暗闇の中で輝いている。”(ヨハネによる福音書 1:5)
マリアという名前 ”苦い没薬”は、イエスの生涯、その十字架への道を暗示している。
茨木のり子さんの詩集『倚りかからず』(筑摩書房 1999)に、「苦しみの日々、哀しみの日々」という詩がある。
苦しみの日々
哀しみの日々
それはひとを少しは深くするだろう
さなかには心臓も凍結
息をするのさえ難しいほどだが
なんとか通りぬけたとき
初めて気付く
あれはみずからを養うに足る時間であったと
……苦しみに負けて
哀しみに打ちひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである……
茨木のり子『倚りかからず』(筑摩書房 1999)所収「苦しみの日々、哀しみの日々」
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