1977年のアドヴェント第3主日説教(1977 岩国教会での最後のクリスマス前)

1977年12月18日 岩国教会週報より

BOX-1. 岩国教会所蔵史料



説教題「主を知る知識」待降節第3主日(1977年12月11日 岩国教会礼拝説教)
イザヤ書 11章1ー9節「エッサイの株から一つの芽が出、」(イザヤ11:1、口語訳)
1977年12月18日 岩国教会週報掲載

「エッサイの株」という言葉には意味深いものがあります。木の切り株が今はない、倒された樹木の盛んな様を思い起こさせるように、この株はダビデ王朝を思い起こさせます。諸国と張り合って結局は力の論理で立とうとしながら、主(ヤーウェ)に倒された王朝。そして今はダビデの名ではなく、その父の貧しい羊飼いだったエッサイが残された株と共に覚えられている言葉でイザヤのメシア(救い主)待望の預言の言葉が始まっています。そしてこの預言の6〜9節では「主を知る知識が地に満ちる」ところでは「おおかみは子羊と共にやどり」(イザヤ11:6)というように、力の象徴であるようなものと力の対極である子羊に象徴されるものとが、共に宿っている様がメシアの支配するところの情景として描かれています。

 さて、「主を知る知識」ということですが、聖書では主を知る知識は、神に知られていることを知る知識(ガラテヤ書4:9)が大切とされ、知識の究極は能動態であるよりも、受動態の姿(『聖書大事典』)をとるものということが重要です。無知を痛感することは、神のみこころを知ることへと向けられねばならないでしょう。

 「みこころのままに」という祈りのあるところには、「力の世界」と同居しつつ、なおそれをあがないつつ生きる生き方が、キリストのゆえに許されています。クリスマスを迎えるにあたり、まさに力の論理と同居しつつ、そのあがないを生きる信仰による諸運動・施設からの訴えに耳を傾けたいと思います。(先週説教より)

岩井健作


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