1983年10月16日、聖霊降臨節第22主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
同日発行、神戸教會々報 「北海道の旅」
10月22日(土)13:30、O兄追悼礼拝司式
於神戸教会 参加600名
翌週 10月23日、秋期伝道集会
村上公彦(寝屋川教会牧師)
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
コロサイ人への手紙 1:24-29、説教題「キリストの苦しみのなお足りないところ」岩井健作
”キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている”(コロサイ人への手紙 1:24b、口語訳)
今私どもの教会では、日曜日の礼拝説教で新約聖書コロサイ人への手紙を学んでいる。
今日の箇所はコロサイ1章24〜29節。
ここには「神の御旨」「福音」「神の言」を少々誤ってまた不充分に理解して、問題を起こしていたコロサイ教会の人たちに「使徒」たる指導者が正しく深く充分に教えを伝えようとする苦労がどういうものであったかが記されている。
25節の「告げひろめる」という語は直訳すると「充満する」(ギリシア語 ”プレロオー”)という意味である。
”わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。”(コロサイ人への手紙 1:25、口語訳)
これはこの教会の「論敵」たちが用いていた語で、信仰も色々勉強して知識を積み充満しなければならないと考えていた。
これに対して手紙の著者は「キリストにあって全き者」(28節)となることを主張する。
福音は神の恩寵であり、13〜14節、22節にあるように、神から与えられた「罪のゆるし」「神との和解」であるから、人の努力で充満すべきものではない。
”しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。”(コロサイ人への手紙 1:22、口語訳)
そのことを徹底して展開させ、深化持続させる事が著者の役目であった。
このことは容易なことではなく「苦闘しながら努力している」(29節)と言われている。
”わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。”(コロサイ人への手紙 1:29、口語訳)
恵みは苦難を通して証しされる。
このことがテーマなので「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており」(24節)とも言われる。
”今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。”(コロサイ人への手紙 1:24、口語訳)
我々の苦しみが、神の愛と恵みとを伝えるために払われた「キリストの苦しみ」を証しするという。
小塩力牧師は「相対的な教会現実の中でわれわれが身をもって苦しむことが、キリストの苦難と、無限の距離をおかれつつ、これを指し示しこれにつらなる光栄を受ける」と記している。
「キリストの苦しみ」はそれ自身としては十全であろう。
しかし、それが我々のところでは、その質の万分の1でも、その後に従って苦しむということが欠けているとするなら、欠けていることの自覚は大切ではないだろうか。
教会はキリストの苦しみの欠如欠落の自覚において存在し続ける。
このことは、キリストの愛を「告げひろめる・充満する」務め責任と表裏である。
欠落の自覚の中で我々は祈り励む。
そして我々の力の限界を超えて「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や……明らかにされたのである。……この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」(26-27節)と告げられている。
”その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。”(コロサイ人への手紙 1:26-27、口語訳)
「キリストの苦しみのなお足りない」(24節)という欠落の自覚をもち、それでもなお恵みの働きを信じる故に、喜んで伝道のわざに励みたい。
(1983年10月16日 説教要旨 岩井健作)



