教会の共同性の中で

教会の共同性の中で

神戸教會々報 No.94 所収、1980.10.12

(健作さん47歳)

 この度の会報の原稿を書くにあたって、しばらく前に、ある兄弟からのアドヴァイスのことが心にかかっているので、その事から思いつくことを記したいと思う。それは、講壇について、テキストの選定、説教のねらい等、基本的な意図についてあらかじめ会報等で示しておくならば、説教理解に助けになるのではないか、ということであった。

 この点、今春からの、ガラテヤ人への手紙の講解が終わりに近くなり、その後はしばらく教会暦によるテキスト選定(逝去者記念礼拝、収穫感謝日、待降節)によるので今回はその責を果たせない。逆にここ2年間のことをふりかえるならば、ピリピ、コリント第一、ガラテヤと、パウロ書簡を取りあげたことは、パウロの十字架の神学を学び返すことで、我々が知らぬまに足をすべらしている福音のグノーシス主義的理解と律法主義理解からの問い直しを望んだと言い得ると思う。

 パウロが十字架の苦難において捉えている実存の個別性への自覚が、教会の共同性の土台であり、さらに、現代の歴史の中で人間であるために、負わねばならない苦難に関わることが、その共同性を開かれたものとし、同時に十字架の意味が「福音」となって響くことを願ってのことであったと思い返している。

 しかし、準備した説教(原稿)も語られた説教(テープ)も、要旨として活字となった説教(週報)も三つそれぞれの残骸をさらしていて、主の御手にゆだねる他はない。

 説教について、R・ボーレンは大著『説教学』の冒頭の部分で、説教を「奇跡」と呼んでいる。その意味は彼が語るところに即して厳密に学ばれねばならないであろうが、およその事柄を察するならば、説教は、語る者と聴く者との、「教会」という場での共同の中で生起する、神による出来事、ということではあるまいか。しかし、そうは言っても現状はどう見えるのか。ボーレンは「多くのプロテスタント教徒は、説教を聞くことを怠けるストライキをすることによって、自分たちが講壇の上の男からも女からも、何も期待していないこと、全く何も期待していないことを示唆している。この現象がこの点で見せかけのことなのかどうか、わたしには確信がない」と。これは相当に痛烈である。しかし、彼のそれに続く言葉が我々を救う。「だが究極のところで確かなことがある。被造物が切なる思いで神の子たちの栄光が明らかになることを待ち望んでいるということが真実であるとすれば(ローマ 8:19)、幻滅を味わっている者も満ち足りている者も、成熟している者も未熟な者も、説教者と聴衆それ自身が奇跡となることを待っているのである」。さらに著書は続けて、教会に入ってこない者でも、ひそかに耳を教会の壁につけて「語ることも聞くことも奇跡である」ことを証示する言葉があるかどうかをうかがっているし、さらに「神が待っていて下さる」と語っている。このことに、大きな励ましを与えられる。

 最近講壇を担当して下さったA教師から「説教することが出来て、大いなる喜びを覚えた」という意味の言葉を聞き、説教が恵みのわざであることを深く感じた。そういう点から言えば、説教によって呼び覚まされ、神の前に於ける実存がふれあって自覚された共同性というものを、しみじみと覚えることがある。それが教会の共同性というものであろう。

 それにしても、説教(奇跡)を、日曜毎に、日常の役目として持つとは。考えると恐れおののかざるを得ない。それが、主の教会の共同性に支えられたわざであることだけを信じて歩みたい。