根のある倫理《コロサイ 2:6-15》(1983 説教要旨・週報・待降節)

1983年11月27日、待降節第1主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載

(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)

コロサイ 2:6-15、説教題「根のある倫理」岩井健作
”このように、あなたがたは主イエス・キリストを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。”(コロサイ人への手紙 2:6、口語訳)


 「コロサイ人への手紙」が執筆された直接の動機は、コロサイ教会の信仰のあり方を蝕んだ”コロサイの哲学”に対する反論である。

 2章8節では、それは「虚しい騙しごとの哲学」と言われる。

 ”あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基づくものにすぎない。”(コロサイ人への手紙 2:8、口語訳)

 そのおよそのあらましは、ざっと次のような考えである。

 ① 人間の肉体は死と共に滅び、魂のみ分離して天に昇る。
 ② 魂は「英霊」「天使」などの段階を経て「神格(テオテートス)」となる。
 ③ 「神格」への変身こそが救いの最高目標である。
 ④ そこに至る途中で「もろもろの霊力」(ストイケイア、語の意味は、初歩・基本・宇宙を動かす基本の諸力)の妨害。
 ⑤ 救いに至らんとする者は諸霊力をコントロールする術(占星術、呪術、祭儀、禁欲など)を身につけねばならぬ。

 その考え方の特徴の中で、旧約聖書及び初代教会の信仰と著しく異なる点は、人が上昇して神になるという点、人から神への連続性の思想である。

 これに対して、旧約では神の独一性、人格性、超越性が厳しく述べられ、人から神への連続思考は退けられている。

 新約においても、人から神へではなく、神から人への関係が明確に強調されている(ヨハネ第1 4:10他)。

 ”わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。”(ヨハネの第一の手紙 4:10、口語訳)

 その底には、創造主なる神と被造物なる人間との関係と区別がある。

 この関係が呪術等の強制から人間を解放する。

 新約ではこの神から人への関係の樹立に「救い」を見る。

 それがイエス・キリスト(福音)の出来事である。


 というわけで、コロサイ人への手紙の異端反駁は、積極的には《キリストとは何か》というキリスト論の展開となる。

 人は神になるのではなく、キリストの姿において、神に出会うのである。

 その出会いの最終的・包括的形態を《愛(アガペー)》という。

 これは徹底した他者との出会いの関係である。

 コロサイ2章12節にあるように「己れ」が死んで葬られ、さらに「よみがえらされて」もつ関係である。

 ”あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。”(コロサイ人への手紙 2:12、口語訳)

 古き己れが一度死ぬということは、連続性の思考が絶たれるということである。

 私は、人と人との関係、例えば親子でも、連続性の考えが絶たれないところでは、どこか”甘え”の関係や”支配”関係になってしまい、人格の関係が生まれてこないと思っている。


 人と人との関係を倫理というなら、根のある倫理は、人から連続的でない神(キリストに在る神)に根ざしてこそ根本が正されていくであろう。

 「キリストを受け入れたのだから(実はキリストに受け入れられているのだから)彼にあって歩きなさい」(コロサイ人への手紙 2:6、口語訳)。

 私たちは、相互の人格性を創造しない生き方を打ち破りつつ、人格として呼び覚まされる体験を大事にして日々を歩みたい。

(1983年11月27日 説教要旨 岩井健作)


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