聖書にきく(8)(1980 保育)

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年11月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 47歳)

主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。 詩篇118篇1

 人間の記憶とか印象というものは妙なもので、何でもないある人のある時の所作がいつまでも心の中に残っているということがあります。

 めぐちゃんの印象もその一つです。なぜ私の家に遊びに来ていたのかは忘れました。きっとお母さんが園の母の会の委員をしていて、用事の間だったかもしれません。お昼だったかおやつだったか、テーブルに仲良くかけて食パンを一緒に食べたのですが、めぐちゃんは中の柔らかいところを手でボコッとくり抜いて口に入れ

「ハイ、これ耳」

 と、まあるくぽっかりと穴の空いたパンを差し出すのです。はじめ何の意味かがよく呑み込めなかったのですが、これは硬い耳のところだからもう食べないの、ということがわかってびっくりしてしまいました。

 昭和一桁生まれで空腹が当たり前で育ち、未だに汽車弁などは蓋の裏についた米粒を一つ一つとってから大事そうに箸をつけることが習性になっている私などにとっては、大変な驚きだったので、心の映像に焼き付いているのかもしれません。時は1960年代の初め、ちょうど日本の高度経済成長が潮の如き勢いで庶民の生活を覆っていた頃です。

 このことを思い出させたきっかけは、この間、岩村昇博士と話をしていて、日本ではどうしてこう食料をはじめ無駄が多いのだろうか、と嘆きと憤りにも似た声を聞いたことです。最近ネパールから神戸大学に帰られた同博士は、自分の歓迎会が高い会費でもたれ、多分アジアから輸入されたであろうエビが少し手をつけられただけで残飯に回ってしまうのを見ていると、何のための輸入なのだろうか、そういう消費のスタイルの協力がアジアへの協力になるのだろうか、考え直して欲しい、と言っておられました。

 バングラデシュで医療活動をしている石川信克医師からもアジアへ使わない衣料を送ってくれるよりも、その衣料を繕って自分で着るという生活のスタイルを身につけることの中からアジアの民衆の自立を援ける協力が必要なのだ、との話を聞きました。

 めぐちゃんの生活のさりげない一コマに象徴されるような振る舞いが、この二十年間くらいの間に、知らず知らずの間に自分の身にも染み込んでいるような気がしてきて反省させられた次第です。

 秋、11月。感謝祭。

 この季節に、感謝というテーマを考える時、知らない間に自分たちだけのことを考えているとしたら、もう一度考え直してみる必要があります。日本の秋祭りは豊穣に対する「神々」への感謝ですが、それは自分たち家や村の繁栄に対する感謝であって、閉ざされた共同体の内側の意識という性格を持っています。その意識の延長として日本の繁栄という民族意識があると思われます。そうすると、それに取り込まれるような仕方で「感謝」ということがあるならば、日本の繁栄の犠牲となってきているアジアの人たちの側からすれば、随分身勝手な「感謝」だと思うことでありましょう。聖書が示す感謝はそういうことではないように思います。むしろ逆の立場、つまり強大国の犠牲になって苦難を強いられてきた者たちが、むしろそのような歩みの中に意味を見出し得たことへの「感謝」を語っています。

 変遷きわまりない世界の歴史から見れば、イスラエル民族はエジプトの奴隷となり他民族に対抗して小さな王国を形成しても分裂の憂き目に遭い、強大国アッシリアやバビロニアに征服され捕囚民とされるといった、真に苦難の道を歩んだ国です。少し国が大きくなり繁栄して国の中でも金持ちや権力のある者が幅を利かすと、そのことが絶えず戒められ、幾多の民族の挫折も、むしろそのような驕りが神から審かれていくこととして受け取り直す中で歴史を形作ってきた国です。そういった歴史の節目を思い起こして語られてきた言葉が冒頭に引用した詩篇の言葉であります。

「主に感謝せよ、主は恵み深く、そのいつくしみは、とこしえに絶えることがない」

 この言葉は旧約聖書を読んでいると何回も出てきます(歴代志上16:34、歴代志下 7:3、エレミヤ書 33:11、詩篇136など)。それは決して自己充足的な繁栄が与えられたことへの感謝ではなくて、民族の歩みが正されたことを顧みての感謝であります。それは「主のいつくしみ」に対する感謝であります。

「いつくしみ(ヘセッド)」は、旧約聖書では大変特徴のある言葉で、元々は「熱心さ、鋭さ」という意味で、旧約では神がイスラエル民族をどこまでも愛していく約束の誠実さを意味しています。旧約聖書学者スネイスは「神の契約の愛」だと言っています。契約を結んだ当事者相互の生真面目さを言います。ダビデとヨナタンの友情は硬くヘセッドで結ばれていた(サムエル記上 20:14-16)と記されています。

 ホセア書は不倫の妻を苦しみ悶えながらも愛し抜いていく愛になぞらえて神が背信のイスラエルと関わっていく関わりを表しています。ヘセッドの特徴は、もう一つの「愛(アハーバー)」と比較してみると、アハーバーは愛する者の意志・決断・選びを表しますが、ヘセッドは関係の持続を表します。例えば、ある人が見合いをして相手を選ぶ決断をした後、その選びを契約・約束として、それに忠実であり誠実であることを通して示されるような性質の愛です。旧約の民が神の愛を「いつくしみ(ヘセッド)」として捉えた背景には一つ一つの歴史的出来事を顧み、その個別の危機的な出来事の中に神のみ手を覚えたからでありましょう。ですから、この詩篇の一句は、感謝の心一般を教えようとしているのではなく「主のいつくしみ」への想起を促しています。聖書において「感謝」を語ろうとすれば、来し方の経験を振り返り、そこに込められた意味を他者と共に生きる経験の深まりとして捉え得た時に語り得るのであって、それは抽象的・道徳的感謝の心一般とは無縁でありましょう。

『おおきなかぶ』(トルストイ作、「こどものとも」74号所収、福音館書店 1966)は、子どもの大好きなお話ですが、そこでは大きなかぶが出来たということではなくて、そのかぶをどんなふうに収穫するかということが、この物語の主題になっています。

「うんとこしょ、どっこいしょ」といって力が出し合わされていくことに高まりがあります。もし想像力を豊かに働かせれば、収穫にあずかって力を出し合う人々のつながりは大きく広がっていくはずです。その広がりの中に「主のいつくしみ」を覚えていきたいと願うことしきりです。

聖書にきく(9)

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