聖書にきく(9)(1980 保育)

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年12月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 47歳)

恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 ルカ福音書 2章10節

「つい数日前まで、教会の銀杏の木が穏やかな日差しを映し、きらきらと晩秋の彩りを振りまいているようでした。澄んだ青い空が豊潤な黄色を引き立たせ、静かな時の流れさえも留まっているかと思わせたのも束の間、一日六甲おろしが吹いて、葉っぱたちはてんでに園庭を駆け巡る幼な子たちと共に乱舞し、太い幹もがっしりした黒い姿を現し、新しい季節は舞い降りるようにやってきました。

 教会の冬は、待降節と共にやってきます。外吹く木枯らしがビルや樹々の枝を鳴らして歩く音と共に園舎からは園児が歌うクリスマスに備える歌声が響いてきます。今年も聖誕劇の役割はもう決まったのだろうか、ヨセフは、マリヤは、そして羊飼いと博士たちはどんな子どもが演じるのだろうか、と思い巡らしながら、子らの心に主イエスの宿り給うことを祈らざるを得ません。

 ガチャガチャ、ドサリと教会の郵便受けに郵便が届くたびに、各地からの教会や園へのクリスマス献金の依頼の手紙が幾通となく届く季節です。開拓教会の会堂献金、日本から派遣したアジア諸国での宣教活動、盲人伝道といった伝道に始まり、養護、老人、障害者、婦人、アジアの貧困、様々な救援への連帯、さらに靖国、日韓、部落、沖縄、原爆被爆者、釜ヶ崎越冬、環境権、公害、人権問題裁判への関わりを求める手紙が続きます。とても関わりきれないという気持ちと、でも教会(園を含めて)は期待されているのだな、という気持ちが交錯します。……やがて街路樹の裸の枝が冬空に伸びるのも間もないでしょう。繰り返さない人生の一節に、思い新たに主イエスを迎える心備えをしたい、との思いしきりです。」

 もう2年も前、待降節雑感としてこんな文章を教会の週報に書きました。気候が最も温暖な瀬戸内海べりの季節感覚の中でクリスマスを迎える者の断想に過ぎませんが、凍てつく道を園へと急ぐ子供たちをストーブで暖め、寒風が窓を震わせる音を伴奏にクリスマスの備えをしている園、穏やかな南国の冬の季節で迎えるクリスマスはどんなだろうか、と想像を巡らしています。

 2年前といえば、クリスマスの季節に、城戸典子さん文、鈴木靖将さん絵の『アンデレのふしぎな夜』という子どもの本(日本基督教団出版局 1978)のことが心に印象深く残っています。

 日本基督教団出版部が初めて絵本を出すというので、関係者から意欲的になされた紹介を聞いたというだけではないようです。小さな羊飼いのアンデレは不思議な星に導かれてベツレヘムに駆けていきます。途中、ひいおばあさんの預言者アンナに救い主っていう赤ちゃんがどんな方だか教えてもらいます。アンナは「あの方は……」との語り出しで神の下に人を漁る漁師なのさ、神の言葉の種まきをしてくださるお百姓なのさ、ぶどうの木のように枝を養い、そして私たち罪のために十字架につけられる方なのだと。

 アンデレにはその意味がよくわからないけれど、生まれたばかりの赤ちゃんの頬に流れる涙の目を拭くために、アンナの織った小さな布を大事に持って、貧しい人、悩める人の幻を見つつ、また目覚めてベツレヘムへ駆けて、駆けて、そっと赤ちゃんの涙を拭いてあげる。アンデレのふしぎな夜、というお話です。

 心のうちから滲み出たような絵の色彩の美しさにもよりますが、この絵本が心の残っているのは、何よりもイエスの誕生を誕生物語としてだけ捉えるのではなくて、十字架の死に極まるイエスの生涯全体に出逢う徴として捉えているからでありましょう。

 イエスがどんな方であるかを自分なりに言い表すことが私たちの信仰告白ですが、そのためには、アンデレのように巷の人の苦しみを心の感受性の深みで震わせつつ、イエスを求めて駆けて、駆けていく過程がどんなに大事でしょうか。

 今年はまた城戸典子さんの本を手にしました。『ともしび』(日本基督教団出版局 1980)という題ですが、スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴ(『エルサレム』『キリスト伝説集』共に岩波文庫)の『ともしび』という小説をもとにした絵本です。

 乱暴者ラニエロは十字軍に加わり手がらを立てます。力を誇る彼はその祝いの席で一本のローソクに灯った限りなく尊いともしびを、フィレンツェまでの遠い道のりを消さずに運ぶ約束をします。か細いともしびを守る労苦と心遣いの中で、彼は人間の優しさに目覚めていきます。その道中での経験がキリストとの出会いを象徴している物語です。

 苦しみや心労、悲しみや難儀の長い長いプロセスが、それだけをとってみれば途方もない重いものであったり、底知れない不安に吸い込まれていくようなものであっても、なおそれを包む優しい涙が流され、それを照らすともしびのあることを心のどこかで信じていればこそ、これらの物語が私たちの心を捉えて離さないものを持っているのではなないでしょうか。

 私たちも日頃の保育で不安や労苦を携え持っています。先般たまたまお訪ねしたI教会のD保育園の職員の方々との懇談で、障害児を預かり保育する保育者の方達の真剣な問い、真摯な取り組み、そして試行錯誤に改めてそのことを感じました。しかし、私たちがはっきりとは自覚していないけれども最も深いところにある恐れは、神の前にこれで良いのか、という恐れではなないでしょうか。それはそぞろな不安を超えて、究極なところで責任を問われる恐れです。カール・バルトは降誕節の説教「おそれるな!」の中で「本質的に真剣な懼れを止揚した」という言葉で冒頭に引用した「ルカによる福音書」の言葉の持つ衝撃性を伝えています。

 確かに私たちは苦しい出来事の中で「キリストのために苦しむ恵みも与えられている」(ピリピ 1:29、共同訳)という福音の逆説性を知らされています。しかし、ともすると、その言葉さえもが閉じ込められ、封じ込められてしまうような濃い霧の如き不安の中に置かれます。しかし、それを破るように「恐れるな!」という強烈な響きが、福音(喜びの訪れ)として逆説を主体の真理として成り立たしめ、言葉を力として回復せしめます。十字架の死に極まる生涯において、この世の価値を逆転せしめたイエスは確かに居まし給う。このことの故に「恐れるな!」と心の底で聞き届けて、与えられた務めに励もうではありませんか。

聖書にきく(10)

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