1978.12.3、神戸教会週報
(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん45歳)
この礼拝の聖書箇所 ピリピ人への手紙 3:2-11、説教題「主を待つ心」
待降節雑感
つい数日前まで、教会の銀杏の木が、おだやかな陽射しを映し、きらきらと晩秋の色どりをふりまいているようでした。
澄んだ青い空が豊潤な黄色を引き立たせ、静かな時の流れさえも留まっているかと思わせたのも束の間、一日六甲おろしが吹いて、葉っぱたちはてんでに園庭を駆け巡る幼な子たちと共に乱舞し、太い幹もがっしりとした黒い姿を現し、新しい季節は舞い降りるようにやってきました。
教会の冬は、待降節と共にやってきます。
外吹く木枯らしがビルや木々を鳴らして歩く音と共に、園舎からは園児が歌うクリスマスに備える歌声が響いてきます。
今年も聖誕劇の役割はもう決まったのだろうか、ヨセフは、マリアは、そして羊飼いと博士たちは、どんな子が演じるのだろうか、と思いを巡らしながら、子らの心に主イエスの宿り給うことを祈らざるを得ません。
ガチャガチャ、ドサリと教会の郵便受けに郵便が着くたびに、各地からの教会や幼稚園へのクリスマス献金の依頼の手紙が幾通となく届く季節です。
開拓教会の会堂献金、日本から派遣したアジア諸国での宣教活動、盲人伝道といった伝道に始まり、養護・老人・障害者・婦人、アジアの貧困といった福祉への連帯は最も数が多く、更に、靖国・日韓・部落・沖縄・釜ヶ崎越冬など、社会実践への関わりを求める手紙が続きます。
とても関わりきれないという気持ちと、でも教会は期待されているのだな、という思いが交錯します。
昨年までは、全国へ依頼を出す身であったことを考えると、祈りをもって応えつつ、せめてそのうちのいくつかには、そのしるしとして、ささやかな献金を送ることができ、支えの一端につながれればと、待降節ならではの願いを持ちます。
11月終わりの祈祷会では、待降節を迎える備えの祈りがもたれました。
秋の伝道礼拝の伊藤さんの問いかけ(11月19日 講師:伊藤虎丸 和光大学教授「自立する人間をめざしてー現代社会とキリスト教ー」)を「神戸教会という場で」どのように受けとめるのか。
出エジプト記 16:1-3を引き、伊藤さんは次のように訴えた。
「人はほんとうには自由を欲しがりはしない。埋没の傾向をもつ。しかし孤独といおうか、実存といおうか、そこを超えて”荒野”に入って行かなければならない。埋没ではなく、超越者との出逢いの視点を保ちつつ、”啓示とは主体性の喚起である”といわれるところの意味を探りつつ」
その問いを、受けとめるところにクリスマスを迎える備えをしたい、と山下長治郎伝道委員長が切々と訴え、祈りを導きました。
やがて街路樹の裸の枝が冬空に伸びるのも間もないことでしょう。
繰り返さない人生の一節に、思い新たに主イエスを迎える心備えをしたい、との思いしきりです。
(1978.11.30 岩井健作)