神戸教會々報 No.89 所収、1978.10.29
(1978年5月28日 神戸教会 牧師就任式にて)
この教会をこよなく愛し、遠くより近くより、西から東からお集まりいただいた来賓の皆様と、わが神戸教会の兄弟姉妹を前にして、牧師就任の辞を述べる機会を与えられましたことを深く感謝いたします。
省みますれば神戸教会牧師銓衡(せんこう)委員会より、招聘の意向のあることをお聞きしてから、ほぼ一年の歳月が流れました。長い時の経過を憶えつつ、今このところに立っています。この期間ほど「牧師の務め」というものについて熟慮を促されたことは、かつてありませんでした。
古(いにしえ)の預言者のこと、イエスに従った弟子たちのこと、世々の教会に仕えた働き人たちのこと、そして身近な先輩方、同労者たちの「召命」に思いをはせ、自らを省み、その不明を歎(なげ)くことしきりでありました。
しかし、この務めは、神がイニシアティブとって召された務めであります。この確かさに立ち帰り、時に従って風が吹くように、聖霊の導きにゆだねつつ負う以外には負いようのないものであることを、過ぎし方に加えられた恵みを今さらの如くに振り返りつつ思わざるを得ませんでした。
いずれの教会にあっても「教会」というところには、信仰の先達がきら星の如く輝いています。信仰の戦いの厳しさにおいても、深き淵より神を呼び求める祈りの切実さにおいても、この世の憂いをあるがままに受けつつなお心が清くされていることにおいても、人の世のしがらみをキリストの贖いを信じつつ負うことにおいても、国家権力との対峙において揺るぎなき証しの戦いを構築することにおいても、また教会形成の辛酸を舐めることにおいても、また「牧師」との人間関係の齟齬に耐えつつなお神の養いを信じることにおいても、実に信仰の年輪を刻むこと多き兄弟姉妹が隠れた輝きをもって存在しています。
このことを思うと、この務めを担うにあたって、牧師個人の資質や経験や努力といった如きものは、その務めの遂行を鈍らせこそすれ、その任に耐えさせるものでは決してないことを、自らを省みさやかにさせられる時でありました。
しかし、抜き差しならない出来事の積み重ねを、それなりにたどたどしく歩んできた一人の人間が、これまでの経験の総体を今一度解体されつつ、あえて牧師というこの務めの姿をいくらかでも顕わにすることへの招きが、この教会への召しであるならば、と思うに至り、前任教会の兄弟姉妹の祈りのうちに、その宣教と牧会の任を解かれることを許され、遣わされる場に赴く決断を促された次第であります。
そしてその間、銓衡委員の方がふともらされた言葉が心にいつまでも残っています。
「招聘は恣意によるものではなくて、教会という大切な場にあっての促しによるものです。……すべてを御旨にゆだねています」と。
人間の生き方というものが、熱狂主義や教条主義や宗教的達観に吸い寄せられていくことに注意深く目を向け、そういったものとははっきり区別をして、個という自分であり続けることに、人のありようの夢を賭けて捉えているある哲学者がいます。
彼はそのような佇まいを、その先はもう見えないところに立っているという構図の中に捉え、バニシング・ポイント(消失点・限界点)の佇まいとして画いています。そしてこのように言っています。
「自分がいる場所に、自分が実体としているかどうかは疑わしい。自分の存在というものは、周りの空気は薄くないにしても、かなり薄いものだ。にも関わらず、実体としてでなくとも、役割として、自分個人の責任において賭けをした方がいいし、することを選ぶ。」
この言葉にあやかって言うならば、牧師も、実体としては破れそのものであっても、役割において自らを賭け、遂には、教会という場の祈りだけが残るような地平に佇む者へと招かれていきたいという願いを持ちます。
しかし、そのようなところへ導かれるには、教会という場の祈りが、そこまで煮詰められていく遥かなる道程があることを憶えます。
「わたしはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なる呻きをもって執り成してくださる」とパウロが語る如く、世の憂いを執り成してくださる御霊の執り成しに、どれ程の共鳴をもって関わり、想像力を持つか、遥か思い見ざるを得ません。
神戸教会は幾多の風雪を経て歴史を刻み、今104周年を迎えています。すでに長年の祈りであった会堂の大修理を、児玉牧師を中心に、教会の一致したわざとして成し遂げました。それを通じて教会を顧み訓練し給う神の恵みを豊かに与えられていることと思います。そして今、激しい歴史の流れにあって、これから神ご自身が、この教会に課せられようとしている課題を「静まって」(詩編40:10)聴かんとしております。
教会の塔から神戸の街並みを眺めますとき、この会堂が先人たちによって献堂された1932年に考えられなかった高層ビルが林立し、視界は狭まり、その死角は広がっています。その底に沈む陰の濃さは、高度経済成長下の歪みの中で限りなく暗く濁って沈む日本とアジア諸国の暗い部分を暗示しているかのようです。
主イエスによって負われ、御霊のとりなしに与っている世の悲しみが、多くの人たちの目には遮られて見えないように、現代の教会もこのような死角をもっていることに例外ではありません。これは教会の厳しい現実です。しかし「仕えられるためにではなく、仕えるために」(マルコ10:45)と世の罪と重荷を負って先立ち給うのが主イエスであります。
このことを信じ、兄弟姉妹と荷を分かつことによって共に育てられ
みまねきかしこし
我はゆかん
おのれをすてつ
十字架を負いつ
あまつうたげに
あずかるまで (サイト記:讃美歌329番の歌詞より編集抽出)
と心に讃美を奏でつつ、励んで参りたいと思います。
近隣及び関係諸教会、来賓の皆様に、どうか切なる祈りをもって連帯をして戴きたくお願いをして、式辞に代えさせていただきます。
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