ぶどう園のいちじくの木(1978 神戸教會々報 ①)

1978年7月16日、78年度 夏期特別集会の朝礼拝説教 要旨

神戸教會々報 No.89 所収、1978.10.29

(健作さん45歳、牧会21年目、神戸教会牧師就任より半年、
神戸教會々報での最初の巻頭言)

ルカ福音書 13章6-9節

 それからこの譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』。(口語訳 1955)

 福井達雨さんの9冊目の本『僕たち心で勝つんや』を読みました。

(サイト記)福井達雨さんは「止揚学園」園長。同志社大学神学部で同級の親友。健作さんの神戸教会牧師就任式にも立ち会われた、この年の神戸教会員にとっては親しい牧師。神戸教会牧師就任式には同じく同級生の金井愛明さん(釜ヶ崎伝道所牧師、兼西成教会牧師、釜ヶ崎いこい食堂運営、炊き出し活動等)も立ち会われた。

 その中の福井さんの文章に入った挿入文が本文の中に入っていて、心のつぶやきや感慨、とまどいや決意を表しているところがあります。書きながら福井さん自身が波間に揺れているのだな、と感じました。

 その事業の発展や成果、支援者の拡大という面から見れば、そこにはたくさんの実が結ばれています。しかし、この本には、福井さんが何かをすればする程、本当に結ばれていなければならない実が欠けているのだという指摘が叫ばれているように受けとめられてなりませんでした。

一つのわざが実を結ぶということは一体どういうことでしょうか。

 福音書の喩話(ルカ 13:6-9)を見ると、ぶどう園のことが出てくるのに、ぶどうの収穫のことには少しも触れられていません。多分、ぶどう園のことだから、少々出来不出来はあっても収穫があるというのは当然のことと考えられているのかもしれません。

 私たちは、それぞれ務めや仕事に携わっています。さらに奉仕や実践を担っています。そしてその評価を「ぶどうの収穫」の尺度でします。成功・進展・再生産があったかどうか。例えば、よい実業家、よい教師、よい社会活動家等。発展的に多くのものを生み出すその連続性が評価されます。それはまた心地のよいものであります。

 しかし、この譬えが求めているは、ぶどう園の中の「いちじくの実」です。

 何故いちじくの木が必要であり、その実が求められるのかは今は問わないことにします。

 しかし、実を求められても、それが見当たらないことだけは確かです。

 私たちの務め、仕事、奉仕、実践のうちに、イエスによって成し遂げられた実をどれだけ宿らせ得るのかという問題です。

 私たちがなすことに情熱を傾ければ傾ける程、
 自由になるでしょうか、
  こだわりが多くなるでしょうか。
 希望を持っているでしょうか、
  つぶやくでしょうか。
 十字架を負って人に仕えているでしょうか、
  仕えられたりお守りをしてもらったりしているでしょうか。

 どれ一つ考えても、「実」らしきものは夜空の星の輝きのように彼方にあります。

いちじくの実」を求められているのが「教会」だとしたら、それは厳しいことです。

 譬では、園丁が主人にとりなして「ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから」(ルカ13:8)と記されています。

 慰めに富む物語です。

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神戸教会牧師就任の辞(1978 神戸教會々報 ①A)