他者がいる《ルカ 15:1-7》(1993 週報・説教補助・平和聖日)

1993.8.1、神戸教会
聖霊降臨節第10主日・平和聖日 週報

(健作さん60歳誕生日、35年目の結婚記念日)

この日の説教、ルカ 15:1-7 「他者がいる」岩井健作

 ”徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」”(ルカ 15:1-7、新共同訳)


 誤解を恐れないで言うならば、いわゆる「宗教を信じている」という人には、どこか鬱陶(うっとう)しい、との思いをさせられることがある。

 なぜそうなのか。

 それは、まず「宗教的真理」という深遠なものが想定され、それを自分の観念にまで取り込むことで、機械仕掛けの強さのような精神をもって、人に君臨するからである。

「宗教」のところを「科学的」「政治的」「人生論的(例えば、金や地位や能力がなければだめだというような)」という言葉に置き換えてもよい。

 それらも「擬似宗教」である。

 少なくとも、聖書や教会やキリスト教を、そういう「宗教的真理」を語り、教える延長線上で考えないで欲しい、というのが私の願いである、ということだけは自戒を込めて言っておきたい。

「真理」とか「本質」とかをまず求めるという思考そのものは、どこか身近な関わりでの人へのやさしさを失わせることが多い。


 この間、千葉利夫さんがご自分の勤めている高校の一年生の講演会を企画され、いろいろとご苦労されて、福井達雨さんを講師に招かれた。

 聴衆の心を揺さぶり、感動が伝わる講演会だったと聞いてほんとうに嬉しかった。

 福井さんは、重い知恵遅れの子供たちと生きて40年近くになる。

 彼が一貫しているのは、障害児(者)の教育を理念や本質から取り組まない、差別の現実にある人と共に立って、抵抗運動をし、教育権運動を実践する。重度障害者を切り捨てる社会の構造に天皇制を見る。

 彼は「教師はいても教育者がいない、医師はいても医者がいない、牧師はいても牧者がいない、人はいても人間がいない」と言う。

 彼は神学部で私と同級生だ。同級生の「牧師」にも厳しい。だが、同級生が苦しい時に支えてくれた、と彼が言ってくれた。

 千葉さんが福井さんとの夕食に招いて下さって久しぶりに話をした。

 彼は、聖書を、彼にとっての身近な「他者」の視点から読むので、いのちを泉のように汲み取っている。

 彼の48冊目の著作『愛が咲いたよ』(いのちのことば社 1993)には、祈りと愛の行動と「人がいて人間がいない」社会への怒りがぶつけられている。


 ルカによる福音書 15章1節〜7節

 1節〜3節は、譬え話の語られた状況。
 3節〜6節はイエスの譬話の原型に近い伝承を、
 7節は筆者ルカの神学と説教を語っている。

 いなくなった羊が、99匹に対して、厄介な、しかし欠くべからざる「他者」の存在であることを読み取りたい。

 他者に問われ、共にある在り方へと促されることが「教会生活」なのである。

(1993年8月1日 神戸教会週報 岩井健作)


(サイト記)この日の説教、健作さんの直筆原稿ノートの最後には次の一文がある。

イエス、こそ
 失われた羊の姿をもって
 我らの前にある。


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