他者がいる(1993 礼拝説教)

1993.8.1 神戸教会主日礼拝・平和聖日 週報 No.31所収

(神戸教会牧師16年目、牧会36年目、健作さん60歳誕生日、35年目の結婚記念日)

ルカ 15:1-7 「いなくなった羊」

 誤解を恐れないで言うならば、いわゆる「宗教を信じている」という人には、どこか鬱陶しい、との思いをさせられることがある。なぜそうなのか。それはまず「宗教的真理」という深遠なものが想定され、それを自分の観念にまで取り込むことで、機械仕掛けの強さのような精神を持って人に君臨するからである。

「宗教」のところを「科学的」「政治的」「人生論的(例えば、金や地位や能力がなければだめだというような)」という言葉に置き換えてもよい。それらも「擬似宗教」である。少なくとも、聖書や教会やキリスト教を、そういう「宗教的真理」を語り、教える延長線上で考えないで欲しい、というのが私の願いである、ということだけは自戒を込めて言っておきたい。「真理」とか「本質」とかをまず求めるという思考そのものは、どこか身近な関わりでの人へのやさしさを失わせることが多い。

 この間、千葉利夫さんがご自分の勤めている高校の一年生の講演会を企画され、いろいろとご苦労されて、福井達雨さんを講師に招かれた。聴衆の心を揺さぶり、感動が伝わる講演会だったと聞いてほんとうにうれしかった。福井さんは、思い知恵遅れの子供たちと生きて40年近くになる。彼が一貫しているのは、障害児(者)の教育を理念や本質から取り組まない、差別の現実にある人と共に立って、抵抗運動をし、教育権運動を実践する。重度障害者を切り捨てる社会の構造に天皇制を見る。彼は、教師はいても教育者がいない、医師はいても医者がいない、牧師はいても牧者がいない、人はいても人間がいない、と言う。彼は神学部で私と同級生だ。同級生の「牧師」にも厳しい。だが、同級生が苦しい時に支えてくれた、と彼が言ってくれた。千葉さんが福井さんとの夕食に招いて下さって久しぶりに話をした。彼は、聖書を、彼にとっての身近な「他者」の視点から読むので、いのちを泉のように汲み取っている。彼の48冊目の著作『愛が咲いたよ』(いのちのことば社 1993)には、祈りと愛の行動と「人がいて人間がいない」社会への怒りがぶつけられている。

 ルカ15:1-7。
 1-3節は譬話の語られた状況、4-6節はイエスの譬話の原型に近い伝承を、7節は筆者ルカの神学と説教を語っている。
 いなくなった羊が、99匹に対して、厄介な、しかし欠くべからざる「他者」の存在であることを読み取りたい。他者に問われ、共にある在り方へと促されることが「教会生活」なのである。

(岩井記)

(サイト記)週報に礼拝当日の説教要旨を掲載するという作業について

 健作さんはこの作業を続けた。具体的には次のようになる。前週の水曜日迄には翌週の説教のタイトルと聖書箇所、讃美歌を選んで翌週予告として掲載するため入稿が必要になる。ここまでは皆がやっている作業である。並行して水曜日までに日曜礼拝のため「説教要旨」原稿を入稿しなければならない。現在なら当日にプリントアウトしてコピーもできるが、週報は印刷物なので、水曜入稿厳守となる。説教要旨を水曜までに完成させるのは、大変な作業である。しかも水曜の夜には、聖書研究・祈祷会もあり、その準備もある。気の遠くなる作業が継続され、現在の菅根牧師にも引き継がれている。

 入稿後、木曜日から土曜日迄、実際の説教までに原稿を整える時間が3日あることになる。説教要旨と実際の説教の間にどれだけの差があるのか、今はまだわからないが、実際の説教原稿をお預かりしていて、現在筆者の手元にある。

 達筆で読めなかったりするのだが、B5の用紙7枚にボールペンや万年筆で推敲の跡が残っている。今回はそこに福井達雨氏の『愛が咲いたよ』本文からのコピーがあり、「人よりも人間を育てる」というタイトルの文章のコピーがあり、「はみ出し」として2ページが追加されている。ホチキスのハリを外して全文をスキャナーにかけるのが一番早いし楽だと思っている。読めない部分はいつになっても読めないし、テキストデータ化を完了することは不可能だと思うので、近いうちにオリジナル原稿を画像データにして保存する方向に進むだろうと思う。

 最後の最後に書いてある文章を以下に紹介して本稿を終えたい。

ピリピ 2:6

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」

イエス、こそ
 失われた羊の姿をもって
 我らの前にある。

 健作さんは資料を「いずれは処分するだろう」とおっしゃるが、是非とも保管を、とお願いしている。この資料の存在を知る者の一人として、健作さんのコンテンツが失われないよう、どうするのが良いのか考えつつ、手元ではコンテンツ更新しています。