神戸教會々報 No.89 所収、1978.10.29
山下長治郎さん 執筆時71歳(1907-1993)
1978年度の「夏期特別集会」は終わった。
わたしたちのそのための準備は、これからの神戸教会の進路に新鮮な「展望」を見出したいという祈りによって始められた。参加者も例年より多く与えられて、きわめて恵みに満ちた集会であったと感謝している。
この4月に岩井健作牧師を招聘し、それにともなう就任式のために忙殺され、その上に教会の宣教に重要な契機となる「夏期特別集会」を開くということは、時間的にも準備不足になってしまうという虞れをいだいていたが、岩井牧師の全力投球という熱意と、伝道委員会の協力と相俟って、その準備内容にも盛り上がりが見られて「説教と日常生活」というテーマの決定に至っては、その緊張度の集約としての一つの具体化と言いたいところである。
発題者は岩井牧師の他に、特に会員の各年齢層から3名の方々をも加えられ、グループ懇談会、総合協議には先に岩井牧師の懇切なプリントの配布によってテーマの趣旨はくまなく伝達されていたので、多様で自由な懇談が随所にかわされていった。
そして主張された論理は未完結なものであっても、この時代の重くかつ暗い状況に立ち向かう教会の宣教への課題となって、わたしたちに一つの「迫り」となっている。
かつて、吉本隆明が太宰治を評して「人間は暗く見える時には、絶望はそれほどに達していない。人はそのように生きるものだ」と言った言葉が、わたしのこころに残っている。
戦後30年の今日の状況は、いよいよ重くかつ暗い。このきびしい状況をいかに生き抜くかというこのことを突き詰めるのでもなく、ただ状況に押し流されていく「生きながらの死」。
人はそのように生きるものだという言葉が、今さらの如くよみがえってくる。
最近の吉本隆明の発言として、大衆の原像の変化について、例えば、思い込んだら命がけみたいなものに対し、シラケシラケさせることによって、それを無化してしまうという風に捉えて、そのことをつかむことは戦後ということの全体をつかむことにつながる重要な問題だ、と指摘している。
昨年度の「夏期特別集会」の総括において、この吉本の言葉の意味をも含め訴えたのであった。本年度の「夏期特別集会」も終わり、各自おのおの総括を迫られているとき、わたしたちは如何ような答えの用意ができているだろうか。
「説教」を通して語りかけてくる神の言葉は、人間の言葉という「受け皿」をもって、この世に語り、証しをしていかねばならない。その「受け皿」はわたしたちの信仰と祈りによって日々新しくされていく。
そのことこそ、わたしたちにとって、今日を大切に生きるということではないだろうか。
「ぶどう園のいちじくの木」という朝礼拝説教に、わたしは聴き入りながら釈義の領域をすれすれに離陸していたようである。
この譬話のいちじくの木には、何故ぶどう園に、何のために植えられたのかという問いは許されてはいないので、したがって答えは与えられていない。
ただ、いちじくの木にとって、ぶどう園は何なのか、どういう意味なのかという、そのこと自体をとことん問い詰めていくことが課題とされている。
このことは、創世記の冒頭の創造物語の現実的承認として、わたしたちの現実につながっている。その創造物語は歴史的記述でもなく、またいわゆる物語でもない。このことはあくまで生起する出来事を指し示している。
わたしたちがここに「在る」というこの事実は、このように在らしめている他者の主体性そのものの決定によるものであって、この決定が「生起する・下されている」ということである。
わたし自身にとって、この「在る」という事実は、ある時、ある処に、わたし自身にも全く思いがけなく生起したものにすぎない。ただ単純に事実としてそのようなものとして在るというほかない。
このような根源的な決定は、今日のいろいろな問題性と断絶されているところに根源的な意味があって、直接的には人間の生き方に関わりを持っていないという関係で、他者の決定はわたしの存在と根源的に関わりを持っているということになっている。
このことはわたしたちの信仰・思想に断絶がなく、ただ連続性・直接性の線上にあるところには、いわば単なる裏返しであって、何ものも生まれてこないということである。
思い起こせば、近代化の過程で信仰・思想を身につけ、投獄されたキリスト者・マルキストの或る人々は、最後には自覚的思想・信仰のレベルではなくて「日本」「家」からの孤立に耐え得ず、国学研究等で「日本」「家」との連続性の確認に務める形で倒れて行ったということは、このことを示しているようである。
ぶどう園のいちじくの木は実を結ばないので、園主の信頼に答えることはできない。
わたしたちの現実は「原罪」「無明」の虚無に操られて「生きながらの死」を負うている。
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント第二 5:2、口語訳 1955)
とパウロは語ったが、イエスの十字架の死は、わたしのために死んでくれたという事実を、わたしはわが身に引き受けて現実に承認することを告白したい。
イエスの厳粛な十字架の死の前に、新たな感動を覚えたわたしの信仰は、わたしのイマジネーションに基づく想像の所産に過ぎないと言えるだろうか、そうではない。
イエスがわたしのために先に死んでくれた事実は消えない。
その事実は、わたしの「生きながらの死」から「死にながらの生」への断絶に、逆説的転換を可能にする。そしてそのことが、わたし自身にとって現実となる。