聖書にきく(7)(1980 保育)

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年10月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 47歳)

どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。 ピリピ人への手紙 2章2節(フィリピの信徒への手紙)

「仲良きことは美しき哉」という武者小路実篤氏の色紙があります。この箴言が上の方に書かれ、下の方にジャガイモなど野菜を三つ描いた作品ですが、見るからに人畜無害清涼飲料水的な作品です。またこれが受けるのか、よそのお宅を訪問すると玄関や床の間でよくお見受けします。

 ところが、3、4年前、ちょうどロッキード事件で当時の首相・田中角栄と右翼の大立者、児玉・小佐野の繋がりが黒い噂として流れている時、漫画家の山藤章二氏が「週刊朝日」の「ブラック・アングル」欄に強力なパンチの効いたこの色紙のパロディ(有名な作品を模し、全く反する内容を読み込んで滑稽化・風刺化した作品)を発表しました。あの三つの野菜のところを田中・児玉・小佐野の似顔絵に代えてしまったのです。このことを取り上げた飯沢匡氏は

「あの作品には山藤氏の武者小路氏への批判まで含まれていることが強く感じられる。あの三人の仲良きことは決して『美しく』ないのだ」(『武器としての笑い』飯沢匡、岩波新書 1989)

 と言っています。そこには日本的「和の精神」への強力な批判があります。

 しかし、そうは言っても現実に私たち日本の社会は、情緒的な「仲良きこと」を基本にした集団で動いています。鈴木内閣の誕生で派閥均衡の「和の精神」を本当に嫌になるほど見せつけられました。原理・原則が集団の枠組みになるのではなくて、人間的つながりや派閥や地縁血縁が底流となって、細かくは排他的であるものが、より大きな同族意識の中に吸収されて野合し、集団として機能していくのが現実です。こういったことは、単に政治の世界だけではなくて企業においてもそうですし、文化や学術研究、宗教、教育といった分野も例外ではありません。

 もう少し身近なところで、保育者間ではどうでしょうか。保育者同士が世代を越えて、また出身の学校や共通の所属を越えて、幼児の成長を促す働きのために共に負うべき課題を担うという点で、いやそれ故に、つながりをもっているのだという共同意識が確保できれば素晴らしいことです。しかし、もし曖昧な同業意識、まして気が合うとか、世話関係などが人間関係の底をつなぐものであるならば淋しいことです。

 人間関係というものはいろいろな要素がありますから、必ずしも保育者集団を理想や使命による結びつきだけで考えるわけにはまいりませんが、保育の現場では保育者としての責任や課題からの結びつきが絶えず優位に置かれるような求心力が必要ではありますまいか。

 どこの国でも職務遂行上の必要からも職員会や教師会といったものがありますが、それが単に事務上の会議であるにとどまらず、保育者間の人間関係の質を深めていくような自覚でもたれたら素晴らしいことだと思います。会議はコンフリクト(軋轢・葛藤)を通して発展しますが、それに耐えていく強い精神が養われないと、事なかれ主義の「和の精神」に呑み込まれてしまいます。そうして、会議のコンフリクトを耐えさせる力は、人間関係の真底を支える共同意識ですが、そこのところに向かって示唆を与えている聖書の言葉の一つとして今月のテキストを聞き取りたいと存じます。

 ピリピ人への手紙2章を読むと、3節で「何事も党派心や虚栄からするのではなく」とパウロはピリピ教会の集団のあり方をたしなめています。良い交わりを持っているはずのこの教会の中にさえ、党派心と言われる派閥を作る心が渦巻いていることに驚かされます。自分を顕示する人々と自分を埋没させる人々の動きは、たとえ三人でも人が集団を作るところで目に付きます。パウロはこの党派心を克服するあり方を「へりくだった心をもって、互いに人を自分よりもすぐれた者としなさい」と勧めています。そして続いて「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことをも考えなさい」と戒めています。さらに加えて最後のところでは「キリスト・イエスにあっていただいているのと同じ思いを、あなた方の間でも互いに生かしなさい」と述べ、聖書本文は「ではキリストとはどういう方なのか」というキリスト論の展開(6節以下)へとつながっています。

 党派心を克服する力は「人を自分よりもすぐれた人とする」とか「他人のことをも考える」という、かなり自我を押さえ込んだ個のあり方を通して出てくることが示されていますが、根本的には6節以下の「キリスト讃歌(キリスト論)」に示されている十字架の死に至るキリストのあり方から出てくるものだ、と訴えられています。

 私たちは「同じ思い」「一つ思い」になることを、よく人に合わせることだと思いがちで、それがいつの間にか「和の精神」へと繋がらせてしまいますが、パウロは「同じ思い」になることは「キリストの思い」へと心を向けることだと言います。このことが、集団の構成メンバー間のコンフリクトを突き抜けていく力となるとは実に深い意味を持っています。コンフリクトを突き抜けて、なお人の心が通じ合えるような共同意識として「キリストへの思い」が示される訳ですが、それは単に「キリスト」に思いを巡らすことではなくて「十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ人への手紙 2:8)キリストへの追従が含まれています。イエスが福音書で「十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ 8:34)と言っていることを思い起こします。それは自分だけの「穴」を通り抜けていく心の経験を大切にしていく思いでもあります。

 谷川俊太郎作・和田誠画の絵本に「あな」という作品があります。(「こどものとも」48号、福音館書店 1983)。

 ひろしは、日曜日の朝、一人で穴を掘り始めます。汗水垂らして一生懸命掘って、深くなったところで芋虫に出会って、ふっと、肩の力が抜けて、静かに穴の中で一人で思いにふけります。家族が友達が代わりばんこに出てきて声をかけますが、もう一つひろしの心に届いてはいません。穴の中から上を見上げると、空がいつもよりもっと蒼く、高く思えます。そしてひろしは穴から上がり、深くて、暗い穴を覗き込んで「これは僕の穴だ」としみじみ思います。

 みんなが自分の穴を持った経験を大切にして、そこで「同じ思い」となる時に、「力を合わせて」いく共同の基盤というものが見えてくるのではないでしょうか。

▶️ 聖書にきく(8)

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