聖書にきく(6)(1980 保育)

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年9月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 47歳)

またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる。 ゼカリヤ書 8章5節

  保育者にとって、幼児の親とどのように対応するかということは、なかなか難しい問題です。キャリアのある先輩の保育者から経験を教えてもらうにしても、若い者には不安がつきまといます。母親の方が子育ての実際的経験者であり、また上の子の園生活を通して、色々な保育者との関わりを持っている人は、保育者を見る親のまなざしさえ備えています。そして親から学ぶこともたくさんあります。しかし、親と保育者との根本的関係の中で、保育者はその専門性において果たすべき責任や役割というものがたくさんあると思います。私には、それを体系的にまた網羅して述べることなどとてもできませんが、その一つとして「保育者の信仰と希望」につき今月のテキストからご一緒に聞き取りたいと思います。

 親と保育者(幼児教育施設)との基本的関係については、例の「キリスト教幼児教育および施設についての基本的見解」の次の文章がよく語っています。

「(幼児が)教育を受ける権利は、その両親にゆだねられている。従って、幼児教育施設は、これら幼児の両親に委託された義務の一部をその両親からゆだねられて教育の責任を負うものである。そこで施設は、幼児の真の成長をめざして両親の委託にこたえ、両親たちと深く連帯しながら教育をおこなうものであることを自覚しなければならない」(『新キリスト教幼児教育の原理』p.19)

 ここでは、①幼児の真の成長、②両親の委託、③両親と深く連帯、という三つのことが言われています。

 第一は、キリスト教保育による幼児観、幼児を囲む社会観・世界観というものをはっきりと掲げ、施設ないし保育者がしっかりとそれに立つ、ということでありましょう。

 第二は、幼児の教育の問題が最終的には親に委ねられたことであることをはっきりさせながら、親が何を施設に委託しようとしているのかを見抜いていくことでありましょう。

 第三は、当然起こってくることですが、親の願いと施設ないしは保育者の保育理念とを細部に渡って突き合わせながら、両者が対話し、また実践的に連帯していくことでありましょう。さらに大切な点は、最初の保育理念といったものは、確かに聖書を学び聞くことから導き出されるものでありますが、固定化された理念や教義ではなく、施設や保育者の「幼児の真の成長を目指す」信仰と希望の中に生きているものだ、ということです。「真の」という言葉は、現実にはまだはっきりとは形を成していない彼方のものでありながら、信仰と希望においては確かさを垣間見ているという気持ちの表現ではないでしょうか。そして冒頭に引用したゼカリヤ書8章5節の言葉の中に、幼児の真の成長を目指す信仰と希望が語られています。

 旧約聖書のゼカリヤ書は、ハガイ書と並んで紀元前520年頃、イスラエル民族の間で活動した預言者ゼカリヤの言葉を記しています。時代背景を少し述べますと、バビロニアに捕囚されていたこの民族が、バビロニア帝国に代わるペルシアの出現で捕囚を解かれて故国に大量帰還した時のことです。エルサレムは滅亡時の廃墟に等しく人々の生活は苦しく、まず食べることを、といった状態でした。貧しい時こそ、人々が助け合って精神的な者が活きているというのが人間の願わしい現実であり、また旧約の民族の生き方もそのような信仰的伝統を持っていたはずでありますが、実際は貧すれば鈍するといった実状で、貧しいが故に神への奉仕が忘れられていました。老預言者ハガイは、この悪循環を断ち切るため、みんなが力を合わせ、心を一つにして神殿を再建しようと、しわがれ声をあげて叫びました。そして、老人も子供も蹴散らされて「まず食べること」第一のエルサレムの町にやがて老人(4節を読んで下さい)と子供とが喜々として満ちる日の来ることを、神の救いの現実として象徴的に示したのが引用の言葉です。

 老人と子供、いわば弱き存在が疎外されている社会は「幼児の真の成長」からは遠い社会です。ハガイが語った「主の言葉」は、大いなる幻であり、また決して現実の暗さに飲み込まれない故に信仰と希望です。保育者が親にこの信仰と希望を示し、親がまた「神から」委託されている我が子の教育の中に幻を持つようになるための対話をすることが、保育者の保育者としての責任と役割ではないでしょうか。

 最近こんな経験をしました。E君はお母さんが米国人で、家庭でも英語を使っていましたから、入園時にはほとんど日本語が話せませんでしたし、母親と園との間でも最低限のことが話し合われることで保育を続けてきましたが、時が経って驚くほどE君も順応し母親も日本語ができるようになりました。園の方も少し欲が出て、今まで少々勝手に任せていたごく当たり前の園の決まりなども要求するようになったのですが、言葉が通じると今度はかえって親の持っている教育観や文化の違いが前面に出てしまい、とうとう園などにはやらずにほっておいてもよいという気配まで感じられるようになりました。板挟みのE君は敏感にそのことを感じています。園でもみんなで相談し、大局的なところから見ればE君が友達と伸び伸びと遊ぶ生活の確保が第一だから細かいことは少し後回しにしよう、と当面の対応を決めました。母親の方も少しは気を使うようになって、E君は元気にこのごろ得意な歌を唄いまくっています。「♫カーラーアス、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょう」。そしてE君が街路で(エルサレムのように理想の現実化ではなくて、車が行き交う危険がいっぱいの道ではありますが)友だちと元気に遊んでいる姿を見ていると、友達にとっても小さい時から異なる民族の子と共に生きる経験として、どんなにか大切なものであろうと感じました。

 文化や教育観の違いがある中で、なお親の委託が何であるかと探りつつ、親と対話しつつ「真の幼児の成長」を目指すということは、なかなか難しいことです。また「真の幼児の成長を目指す」ために、まず母親から始まり父親、そして家庭の中の老人をも含めて、地域の人たちの目を幼児に引きつけ、幼児にとって必要でありながら今の時代の中で失われている幼児の生活の回復のために「みんなと一緒に」(当月主題)努力することを促すところに保育者への委託があるものと信じます。

 運動会が近づいていますが「町の街路」とまではいかなくとも、せめて運動場に、老人や両親の持っている幼児の成長への願いを組み込んだ保育へと幻を持ちたいものです。

(続きます)

聖書にきく(7)

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