信仰の時代《ガラテヤ 3:23-29》(1980 平和聖日・礼拝説教要旨・週報)

1980.8.3、(平和聖日)礼拝、神戸教会
説教要旨は8月10日の週報に掲載

(牧会22年、神戸教会牧師3年目、健作さん47歳)

ガラテヤ人への手紙 3:23-29、説教題「信仰の時代」

”しかし、信仰の時代が訪れたので、もはや、わたしたちは、このような養育係の下にはいません”(ガラテヤ 3:25、共同訳)


「信仰の時代が訪れた」というのは、「律法の時代」、つまり自己の義を積み重ねて神に至ろうとする時代は終わった、ということであります。

 パウロがここで「信仰」というのは、個々人が神を信じる態度ということではなく(もちろん応答としての入信も含めますが)、「キリストが到来した」という客観的出来事によって新しい時代の交替が始まったということです。


 なぜパウロは、時代が変わったという変革宣言を強調したのでしょうか。

 それはガラテヤ教会の人々の「信仰以前」の生き方を温存しているチグハグさに対して「福音」が生き方の根底を変えることをはっきりさせるためです。

 自己の義を立てて他人に差をつける(律法による)生き方が生み出した民族差別の根を撃つためであります。

 人が生きることの出来るのはただ値なしに与えられた神の恵みによるのだ、という事実を、彼が体験したユダヤ人によるギリシア人差別の克服へと徹底させて戦うための、宣言だったからです。

「あなたがたは皆……信仰によって神の子なのである。……もはやユダヤ人もギリシア人もなく……」(ガラテヤ 3:23)


”もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。”(ガラテヤ 3:28、口語訳)


 しかし、続けてパウロが、ヘレニスト・キリスト教会からの伝承である「奴隷も自由人もなく、男も女もない」と語る場合(Ⅰコリント 7:20-24、11:2-16、14:34-36に照らして)、パウロは社会的身分差別や性差別について、民族差別ほどに徹底して戦ったとは思えません。

 ここで私たちは、差別は人間の歴史的所産であり、一つ一つ差別される側の心情に呼び覚まされて、それを克服していく以外にないことを、パウロの不徹底さから逆に学びます。

 そして、今日、依然として様々な差別が拡大再生産されている中に生きている私たちに、「信仰の時代」の到来の告知が、身の回りからの戦いを促します。


 今日は平和聖日。

 昨今の状況として世界は軍拡に頭をもたげています。

 しかし次のように指摘されているが如き生き方へと励みたいと存じます。

”問題多き核時代を、絶望を乗り越えて前にすすみ、未来を切り開く以外の道は残されていない”(伊藤壮『1945年8月6日ーヒロシマは語り続ける』岩波ジュニア新書 1979年7月20日発行)

《祈り》

 父なる神、差別の克服に向かって、反戦平和に向かって、身を整え、労を惜しまない者にさせて下さい。

「信仰の時代」を生きるよう召されている故に、己が力に頼る誤ちと罪に気づく謙虚さを持ち、希望に支えられて歩む者として下さい。

(1980年8月3日説教要旨)


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