聖書にきく(5)(1980 保育)

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年8月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 47歳)

ヤコブは眠りからさめて言った。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」 創世記 28章16

 私は妻と共に、最近一つの結婚式に介添人という役割を果たすために参列しました。新郎は2年ほど前に先妻を癌で亡くされ、高校と中学の二人の子どもさんがいる方です。新婦はかつて保育の勉強をして幼児教育に少し携わっていましたが、その後一人で長年仕事に携わっていた方です。もちろん二人の出会いには時と人と場が介在して織りなす経過というものがあります。しかし事柄の深い意味は「神が合わせられたもの」(マルコ 10:9)という聖書の言葉に全てが秘められているとだけ言えば十分な気がしますし、関わりを持たせていただいた私たちも色々と美しいものに触れたことが心に残っています。

「自分のためだけではなく誰かのために生きる人生を願って」今までそれ相応の温かみのある生活を後にした新婦の心境、「人生の何度目かの節目を迎えようとして膝を屈し腰を落として内なる備えをせよという感じがしています」という新郎の言葉もそうですし、式での牧師の説教や披露での先輩の言葉も真実と愛に溢れたものでした。そして、それに加えて印象に残っていることがあります。静かな街並みを眺め下ろす丘の中腹に建てられたこじんまりとした新しい会堂の塔のチャイムから式の始まる前「主よみもとに近づかん」という讃美歌(320番)が流されていたことでした。一瞬「あれっ!」と思ったことは確かです。なぜならこの讃美歌はよく葬儀でうたわれる歌だからです。間違ってか知らずにかテープを入れたのでは、とふと思いもしました。しかし、よく考えてみればこの歌は創世記28章のヤコブの歌なのだ、ということに思いあたり「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった」(創世記 28:16)という思いと共に、これで良いのだと思いました。

 創世記を読んでいきますと(是非12章からのアブラハム、イサク、ヤコブの物語を読んでください)、信仰の父と言われたアブラハムは、主(ヤーウェ)の召しのままに主の示す地に向かって旅立ちをします。そこには信仰による生き方、すなわち「国」「親族」「家」(創世記12:1)からの自由をもって生きていく姿の範例がが示されているようです。しかし、その子イサクを経てヤコブに至りますと信仰も三代目となり、形骸化し、その内実を失ってきます。その有様は、25章19-34節のヤコブが長子エサウの特権を、人の弱みに付け込んで奪う「兄弟は他人の始まり」とでもいうような遺産相続の争いの物語や、27章のヤコブが母リベカの偏愛と使嗾(しそう:指図してそそのかすこと)によって、老齢で目の霞んだ父イサクから家長の祝福を詐取する物語に克明に記されています。

 27章41節以下には、家督を継ぐ祝福を奪われた兄エサウの怒りが語られています。彼は弟ヤコブを憎み、父の喪の日も遠くはない、その時ヤコブを殺そうと思い立ちますが、これを知った母リベカが彼女の故郷ハランの兄のところへ逃れさせるためにヤコブを旅立たせます。そして28章10節。「さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが……」で始まる旅の場面が讃美歌320番に歌われているところです。

 この箇所の「黙読」の印象を、太田愛人氏はこう表現しています。

「三代目になって、そろそろ人間の企みが表面化し、血肉の争いが具体的になり、一族の危機に見舞われようとしている。この時に神が人間に与える解毒剤は「出家」であり、そこで改めて天の神の声を、家の中、故郷の祭壇ではなく、見しらぬ大地の上できく。アブラハム、イサクの神に「ヤコブの神」を加えるためには、歴史体験と大地の上の空間体験をくぐりぬけねばならない。『主よみもとに近づかん』の讃美歌の歌詞とは違い、みもとに近くよりもここに辺境へ追いやられる旅人の夜のうたがあり、決してそれは葬儀のうたではない。青春の門出の事件である。主の方から下降して不安な旅人に啓示されたのが枕と梯子である」(「説教者のための聖書講解」 No.25、日本基督教団出版局)と。

 それぞれに人生の道半ばから出発する新しい家庭が「ヤコブの神」に出会うためならば、この歌が現行讃美歌では「向上」と分類をされている如く、ふさわしい歌なのだと思いつつチャイムの調べに心を委ねた次第であります。

 旅のヤコブが出会った「神」は、彼が住み慣れたベエルシバでは出会えない「神」であり、荒野と孤独と不安の只中でありました。ここに「ヤコブの神」の独自性があります。

 さて、この聖書テキストの語りかけるところを、キリスト教保育に携わる者が8月という季節に聞くとはどういう意味なのでしょうか。

 8月は安堵の月か、不安の月か、と問えば、たとえ園が休みではないにしても、一期を終わり、いささかの安堵がないとは言えないでありましょう。まして、夏に”自宅研修(?)”がある園では、一期の緊張から解放されて安堵を抱きます。しかしまた8月は研修の月でもあり「どこにいても」自らを省み、学ぶ時であります。それは保育の方法や技術を学ぶだけではなくて、幼児の生活そのものが、色々な力によって歪められている現状の中で、幼児の遊びと生活の回復とは何なのか、それに対してキリスト教による保育とは何なのか、という本質的な問いについても深めたいと思う時です。しかし考えれば考えるほど、ちょうど「荒野を旅するヤコブ」のように不安を抱きます。が、その不安を自覚的に捉えながら学ぶことこそ大切ではないでしょうか。

 詩人・故石原吉郎氏の『一期一会の海』という本を読んでいて、詩人が詩の定形について書いている文章に出会いました。

「僕らは定形に対して、常に不安を抱いている者こそ、定形に対して生き生きとめざめているものだからである。定形に安堵し、これにもたれるだけの詩人、17音字の枠にもはやなんの不安も抱かぬ者は、もはや『定形詩人』ですらあり得ない。そこでは、最も重大なことがすでに喪われている。彼が定形を失ったか、定形が彼を失ったか、おそらく双方であろう」(上掲書「定形についての覚書き」 p.70)

 ここを読んでいるうちに、ふと「定形」を「キリスト教保育」に、「詩人」を「保育者」に置き換えてみました。すると実に痛烈に私たちをえぐる言葉として響いてきます。詩人のあり方ほど厳しくなくとも、何とか勤まると心の中で思ってもみましたが、いやいやそうではいけないとの声も聞こえます。何かを学び取り、何かに出会う研修の時を過ごすべく、この夏を旅立ちたいと思います。

聖書にきく(6)

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