原爆を受けた教会(広島流川教会)
いよいよ就職となった。
神学部長・山崎亨に呼ばれたので行くと「岩井君、任地は学校に任せてくれますか?」とのことなので「お任せします」と言うと、「3月20日に、広島流川教会に行ってもらいます」とのことであった。
広島流川教会は、メソジストの伝統の教会で関西学院系であり、前任の小川居が同志社から呼ばれたのは、牧師・谷本清の義弟の幼稚園長・山崎久史(神学部長と同姓なのは偶然)が同志社の出身で、谷本に進言しての出来事であった。
小川居がユニオン神学校(ニューヨーク)に留学するのを1年延ばして赴任したので、次の年、その替え玉として僕が送られた。
小川の給与は教会からは出ていなかった。
多分、幼稚園長・山崎の自由になる幼稚園から出ていたのではないかと思われる。
山崎が努力してくれて、僕の給与は教会から5千円、英語学校で1コマ教えて3千円。食事を作ってくれる会堂守の保田家に3千円払うと残りが苦しかった。
世間では大卒について「月給1万3千円」と唄われていた時代であった。
とにかく育英会の奨学金の返済に幾らか必要だった。
これではとても結婚は無理だった。
大学院1年の時、小林溢子と婚約だけはしたので、小林の両親は結婚の時期の早いことを望んでいた。
僕が英語学校の主任を任されたので、これ幸い中学生の英語教室を次の年、講師が交代するのを好機に2コマ確保し、9月から溢子が受け持つようにした。
溢子は恵泉女学園短期大学英文科出身で、英語教師の免許を持っていた。
そこで1958年8月1日、京都教会で大山寬牧師の司式で結婚式を挙げた。
借り物のモーニングを大阪で返して、旅行は山陰の皆生(かいけ)温泉に行った。
住まいは幼稚園舎の中二階で、立ってぎりぎり頭が届くほどで、窓の外に流しを付けてもらって台所代わりにした。
とにかく間に合わせの住居だった。
上の階は料理教室で足音が天上から聞こえた。
あるときなど、二階でこぼした水が落ちてきて、寝室のベッドの布団が濡れた。
雑誌『指』の読者だったので、広島に選挙応援にきた赤岩栄が訪ねてきたときなど、「共産党のアジトだな」と言っていた。
しかし活気ある青年たちが集まってきた。
槇原君という流川にしては珍しい”社会的な”三菱に勤める青年がいた。
「指」の読書会などをした。
赤岩が来たことがきっかけになって、呉山手教会から招聘があった。
呉には赤岩のファンがいて、赤岩の口添えもあって、流川は2年で辞任する事になった。
僕の後、広島流川教会の次の招聘は同志社でなく関西学院に戻った。
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