麦、死と生の象徴(2005 明学最初の礼拝説教)

2005.4.3 単立明治学院教会 礼拝(最初の説教)

(日本基督教団正教師 健作さん 71歳)

(サイト記)2004年3月迄、川和教会代務牧師、2005年9月から単立明治学院教会 協力牧師、2006年4月から単立明治学院教会 主任牧師(〜 2014年3月)。

ヨハネ福音書 12章20節−26節

 今日は、不思議な導きで御教会にお招きを戴き感謝いたします。

 私は幼稚園の園長の仕事をさせて戴いて、子供が「言葉」の世界に生きる姿から教えられました。

 母親の励ましのように、言葉が力をもつ場合は「人格言語」。
 事柄を説明するのは「説明言語」。
 そして、子供が目をとめた一枚の美しい葉っぱが相手の「イメージ」を膨らませるような「象徴言語」。

 聖書、特にヨハネ福音書は「しるし」や「象徴」を用いて、福音の出来事を語ります。「命の水」「風(霊)は思いのままに吹く」「私はよい羊飼い」「私は葡萄の木」など。

 今日の箇所には「人の子が、栄光を受ける時が来た」(23節)とイエスの十字架の死の時が告げられます。ここは「説明言語」では「死」を語る重いテキストです。

 また、26節で「私に仕えようとするものは、私に従え」と「人格言語」で、「十字架の道」への決断を迫ります。そうして「一粒の麦」は「死ぬ事」の強調として語られます。

 この「死ぬ事」はなかなか難しい事です。私には、この言葉が身に染みた時がありました。牧会経験10年目ぐらいでした。牧師である事は「麦が地に落ちた」までの事で、その自己完結性に破れていない自分を知り、挫折を経験したのです。

 福井達雨さん(同級生)の「医師はいても医者はいない。牧師はいても牧者がいない、教師がいても教育者がいない」という痛烈な言葉を思い起こしました。その時「麦」の「イメージ」に慰められました。麦は「十字架の死」を象徴しています。死ななければ、命には開かれないのです。しかし他方で、少年時代の「麦」の経験がよみがえりました。それは、麦蒔きをする時の、種麦のふっくらとした感触や、凍て付いた冬の麦畑に、青々と根を張る麦の逞しさ、そうして春、麦秋の季節、黄色く、実った麦の穂からこぼれる様な麦の香りと口に入れた時の甘み、粉にした時、うどんやパンになった時の粘りや豊饒な味。それらの経験は、私の人生への神からの「所与の恵み」でした。この「麦」のイメージが、ヨハネ福音書では、死と同時に命や復活を私たちに繋げてくれます。

「麦」は、死と生の二重性を同時に語っています。この事柄を、言葉を通路にすると、「説明や逆説」「人格的迫り」になります。しかし、麦はそのすべてを宿している象徴なのです。

 今日「麦」という事で、どんなイメージを拡げることができるでしょうか。もし「麦」に世界の基本的食料の問題をイメージすることができるならば、世界の極貧の人達のことが私たちの生きる課題になるでしょう。

 祈ります。

 この教会があなたから託されている、貴い、多面な働きを祝福してください。一人一人の兄弟姉妹のこの週の歩みを祝福して下さい。イエスの御名によって祈ります。
 アーメン。

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