1995.6.18、神戸教会週報、聖霊降臨節第3主日
(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん61歳)
ヤコブの手紙 3:13-18、説教「上からの知恵」
ヤコブの手紙は、軽薄で観念的な「信仰」に対して、自由と愛の行いが「信仰というもの」には伴うものだ、いや「行い」を通してこそ「信仰」は深まるのだ、ということを強調している。
この書簡の「行い」の強調は、一般論ではない。
紀元1世紀末の初期キリスト教が、パウロの説いた「信仰義認論」(ロマ書、ガラテヤ書)を形骸化してしまったことへの懸命な対応だったと思われる。
パウロは律法を守って自己充足を起こす行いに対して「信仰義認」を説いて戦ったが、ヤコブは「信仰義認論」を守って自己充足を起こす信仰に対して「行い」を説いて戦った。
「信仰」に「行い」に自己充足的であってはダメだ。
しかし、その両者が共に活きている微妙なバランスの会得への苦心がこの書簡にはある。
ヤコブの手紙を読むと、この自己充足的なあり方との内面的な戦いが感じられる。
”富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。”(ヤコブの手紙 1:10、新共同訳)
”試練を耐え忍ぶ人は幸いです。”(ヤコブの手紙 1:12、新共同訳)
”聞くに早く、話すに遅く、また怒るに遅いようにしなさい。”(ヤコブ 1:19、新共同訳)
”人を分け隔てしてはなりません。”(ヤコブ 2:1、新共同訳)
”神は世の貧しい人をあえて選んで”(ヤコブ 2:5、新共同訳)
”憐れみは裁きに打ち勝つ”(ヤコブ 2:13、新共同訳)
”行いを伴わない信仰は死んだ者です。”(ヤコブ 2:26、新共同訳)
”あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません”(ヤコブ 3:1、新共同訳)
”舌を制御できる人は一人もいません。”(ヤコブ 3:8、新共同訳)
”主があなたを高めてくださいます。”(ヤコブ 3:9、新共同訳)
”金銀はさびてしまいます。”(ヤコブ 5:3、新共同訳)
これらの言葉は、日常生活・社会生活の旧い言い伝え、知恵として伝えられたものの中に、自己を顧みる契機をつかみ、「信仰」も「行い」も人間の共生へと開かれていく時、活きたものとなることを教え諭している。
少し理屈っぽく、神学的な表現で言えば、次のようになるだろうか。
”キリストの福音を信じるキリスト者は、二つの方向を持っている。彼は歴史から解放されるのであるが(信仰)、しかしそのあと再び歴史の中へと入っていくように召されているのであり、その際根本的には歴史的な現実に対する参与と自分の隣人との連帯が問題となるのである。肉となった神の言葉は、まさにこの在り方に置いて歴史を誠実に受け取ったのである。”(畠山保男著『歴史の主に従うーフロマートカの神学的遺産』 新教出版社 1995)
ヤコブは「上からの知恵」と「地上のもの」とを区別する(ヤコブ 3:13以下)。
ヤコブはその境目を「利己心」に置いているらしい。
”あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。”(ヤコブの手紙 3:13、新共同訳)
”義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。”(ヤコブの手紙 3:18、新共同訳)
(1995年6月18日 神戸教会週報 岩井健作)