ヤコブの手紙について《ヤコブ 2:1-5》御国の相続者(1995 週報・三位一体主日)

1995.6.11、神戸教会週報、三位一体主日

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん61歳)

ヤコブの手紙 2:1-5、説教「御国の相続者」

”わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。”(ヤコブ 2:1-5、新共同訳)


 ヤコブの手紙は新約聖書27巻中、20番目の書。手紙の形式をとっているが、キリスト教会全体に向けられた諸教訓からなる勧告の書簡。いわゆる公同書簡の一つ(ヤコブ、ペトロ1・2、ヨハネ1・2・3、ユダの各書簡)。

 内容は、もっぱら格言集からなる。短くかつ部分的な鍵言葉で結ばれている断章。

 それらが相互に論理的一貫性を持ってはいない。そもそもヤコブ書は、救いの出来事を宣教することによって信仰を基礎付けようとしている書簡ではない。

「信仰」(パウロ書簡が中心的に説いているもの)は前提された上で、世俗化の危険に晒されている「信仰」を純化しようとしている。

 つまり、キリスト教の中心教理である、パウロの説いた「信仰による義」(ロマ3:28、ガラ2:16)の真の意味を一方で押さえつつ、あえて「行いの伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ 2:26)と言い切る。

 当然そこには誤解が生じ、ヤコブ書を軸として考えると、人は何の功なくとも「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ 3:24)というパウロの言葉を覆すように受け取られてきた歴史がある。

 宗教者M.ルターはこの点を指して、ヤコブ書を「藁(わら)の書簡」だと言った。

 これらのことはヤコブ書を読むための心得であろうか。


 ヤコブ書が、パウロの思想の誤解によって生じる教会の崩折れに対して発言しているとすれば、年代を紀元1世紀末から2世紀初頭とするのが妥当であろう。

 引用されている格言は、当時のギリシア化されたヘレニズム文化の中で活きていたユダヤ教の「知恵」の伝承に基づいている。

 当時のキリスト教会に教会の役割と責任とを教えるため、当時の人々のよく知っていた伝統的考え方を利用したのである。

 つまり「神の恵み」が人間の歴史的経験に内在化して働いている事実を、伝統的「知恵」の中に読み取って顕在化せしめているのである。

 例えば「隣人を愛せよ」という律法の体系的教えを、いろはカルタ的知恵に置き換えれば、「向こう三軒両隣」とも言える。

 現にこの大震災で隣近所の助けこそがまず力となった例は枚挙にいとまがない。

「町づくり」を外した行政の数合わせの仮設住宅建設の問題点もそこにあるのではないか、と言える。

 さて、ヤコブの手紙 2章1節以下は「人は分け隔てしてはならない」(新共同訳)という古くて新しいテーマである。

「神は世の貧しい人たちをあえて選んで」という。

 ヨブ記 34章19節、コリントの信徒への手紙一 1章27・28節なども参照して、読みを深めたい。

”身分の高い者をひいきすることも 貴族を貧者より尊重することもないお方 御手によっててすべての人は造られた。”(ヨブ記 34:19、新共同訳)


”ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。”(コリントの信徒への手紙一 1:27-28、新共同訳)

(1995年6月11日 神戸教会週報 岩井健作)

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