神、この人間的なるもの(2014 礼拝説教・川和)

2014.8.10、川和教会 礼拝説教《この説教は4回目、極めて重要》
(関連:西宮公同教会 2014/7/20、翆ヶ丘教会 2004/7/4、紅葉坂教会 2004/6/20)

日本基督教団教師、前・単立明治学院教会牧師(-2014年3月)、81歳

マタイ福音書 5章17節-20節

選句「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」(マタイ5:20 新共同訳)

 今日、お読み戴いたマタイ福音書の箇所には「義」という言葉が出てきます。20節です。
 この「義」という言葉は、聖書の思想といいますか、聖書の考え方を表すのに大変、大事な、また中心的な言葉です。信仰生活の長い方は、きっと何回も何回も、その意味をお聴きのことと思います。キリスト教には馴染みのない方も、正義とか義人とか一般にもよく使いますので、およその「正しいこと」というイメ−ジをお持ちだと思います。

 新共同訳聖書には巻末に「用語解説」がついています。聖書特有な用語を翻訳にあたって用いざるをえなかったので、簡単な解説を付けます、といって、133の言葉を選んで解説しています。もちろん、この「義」も出ています。そこを見ると

「神の属性。また人間に対するかかわりの特徴を表す概念。……特にパウロ書簡では、「人間を救う神の働き」、その結果である「神と人間との正しい関係」を意味する……」

 とあります。すでにお気付きのように、又ここに言われているように「義」は神に属するものなのです。

 もうひとつ『岩波キリスト教辞典』という一般にもよく使われているコンパクトな辞典があります。出版は10年ほど前(岩波書店 2002 大貫隆、宮本久雄、名取四郎、百瀬文晃(編集)ですが、新しい項目にも気配りしています。これを引いて見ると「義」という言葉は見出語には出てきません。そこでは初めから「神の義」という項目になっています。「義」は、それについて語る時、「神の義」としてしか語れない、という性格がよく出ています。

 このように記されています。

「人間の罪に直面して示される裁きとしての神の義がキリストの十字架において遂行され、これによって罪人であるわれわれが「神の義」とされた。これがパウロ的な福音における「神の義」である」

 パウロは、手紙のなかでは、この「義」をパウロは自分の信仰思想を示す中心概念として用いました。明確にこの事を言っているのは、新約聖書(277ページ)ローマの信徒への手紙 3章21〜24節。それからコリントの信徒への手紙第二 5章21節です。ここでは「神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)こと、「罪と何のかかわりもない方……によって神の義を得ることができた」(5:21)ことが述べられています。

 罪人である人間が、神の啓示(現れ)であるイエス・キリストの贖いによって、罪を赦されて救われることの全体をこの「義」という言葉で包括しています。

「義」は「神の」義を現しているものとしてのみ用いられています。「神の」というところに力点があります。「義」は神の本質、意志を示しています。神の愛、神の恵み、という表現とおなじく、神が主導(神が働きかける)の関係を示しています。日本基督教団の信仰告白においても「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。」と告白されています。これは福音主義教会(プロテスタント)では「信仰義認」といって、大切な教義です。

 聖書は一面で「義」を徹底的に、神の側に引き寄せて述べます。

 今日お読みした、マタイ福音書の6章33節「山上の説教」でも、世の患いを「思い悩むな」と述べた中の終わりの部分で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と述べています。この事は、マタイ福音書でも一貫しています。「神の義を求めよ」ここが基本です。

 そのことは私たちが繰り返し帰ってくる出発点であることは確認しておきたいのです。

 ところが、ところがです。今日テキストに選ばせて戴いたマタイの箇所には「神の義」ではなくて、敢えて「あなたの義が」が問題にされているのです。

 ここでは「義」は「あなたがたの」という「人間」に委ねられていることが強調されているので、パウロ的・あるいは宗教改革的なものの考え方をしている者には戸惑ってしまいます。

 マタイ福音書はなぜ敢えて「あなたがたの義が」といったのだろうか、と問いを抱きます。

 しかもここはマタイを読む上で大変大事な部分だ、という事が研究者によって指摘されています。

 17節〜19節はマタイが用いた伝承に属していますが、20節はマタイの編集によるものです。なぜマタイは自分の編集の言葉の中で、ことさらに「あなたがたの義」といっているのでしょうか。

 ここの意味を汲み取るには、マタイ全体を見る必要があります。

 マタイは25章で「私の兄弟である小さいものの一人にしたのは私にしたのである」と旅人や病人や飢えている人への懇ろな、交わりを大事にするように教会に訴えています。また、24章では「愛が冷えている」といって、時代の兆候を嘆いています。この教会には愛の戒めを大事にしない人々が居たのだろうと思われます。マタイの言葉は戒めを守らない「反律法主義者たちに対する深刻な警告と読んで間違いない」と研究者も言っています。

 この事は、マタイによる「主の祈り」の理解にも反映している。ルカの「主の祈り」と違う事は皆様御存じの所です。「わたしたちも私たちに罪ある人々を赦しましたように」と述べております。ルカは「赦しますから」。ルカは決意なのですが、マタイは「赦しましたように」と実績なのです。行動に踏み切る手前の者の祈りではなくて、行動した者の祈りが問題になっているのです。

 マタイは「あなたがたの義」がファリサイ派と律法学者の義に「優って」いなければらない、少なくとも量的契機が含まれていることは、ギリシャ語の表現からも明らかであると研究者はいっています。「愛が冷えている」人達に向かって「イエスが教えた教えを実践するように」と促しているのです。「わがくびきは負いやすく」とあるように、たとえ量的なことがいわれていても、愛は形になって初めて、恵みの現実的なものとなるのです。まさに5章20節は、プロテスタントが「業による義」であると感じるものに微妙に近いのです、その危険を含んでいるのです。しかし、それなくして、神の義は「義」にはならないというのがマタイのこの箇所の主張です。

 さて、聖書の中には、教義を伝えること「教え」に熱心な文書と、人間の生き方を説いている文書とがあります。「義」について考えますと、ローマの信徒への手紙などは「教義」が前面にに出ているので「(神の義)教義型」の文書です。しかし、マタイ福音書などは人間の生き方を説いているという意味で「(あなたがたの義)人間型」の文書です。

 キリスト教を求める人のタイプには意外と「教義型」の求め方をする人が割と多いような気がします。「教義」をはっきり把握して、そこから実際の生活を整えていくのは、信仰生活の筋ではあります。しかし、実際は我々は、まず「教義」を学んで、それがわかって入信をするというより、まず人に「出会って」その人の生き方の魅力に引かれてキリスト教になったという場合が圧倒的に多いのではないでしょうか。

「牛に引かれて善光寺参り」という諺があります。善光寺の近くに信心とは縁のないおばあさんがいました。干しておいた布を隣の家の牛が角に引っ掛けて走り出したのでそれを追いかけていつしか善光寺に駆け込み、それが縁で信心するようになった、というお話です。逆にいうと「よき牛があったで拝む善光寺」という事になります。「牛」は仏様ご自身であったともいわれています。

 かつて読んで、心に残っている本に、鎌倉在住の作家で精神科医の「なだいなだ」さんが書いた本で『神、この人間的なるもの』という本があります。岩波新書の小さな本です。2003年の出版なので、かつてお話したかもしれません。

 副題には「宗教をめぐる精神科医の対話」とあります。なださんは慶応義塾大学医学部を卒業すると、同級生の友人と二人ともに、横須賀の久里浜病院に赴任します。その同級生と何十年振りに、対談をした、その記録という形を取った対談集が、この本です。この本で”B”(ABCのB)がなださんで、”T”というのが友人です。

 その友人は、学生の頃「カトリック」に入信します。なださんはもちろん「無神論者」です。その時の事を振り返って、Tさんはこう言っています。

「あの時に出会ったのは、あくまでも”G”という一人の人間さ。カトリックの神父といっても、一人一人みな違う。おれは一人の人間に会った。教義に会ったわけじゃあない。」

 この本は、現代を新しい形の宗教に呪縛された時代と見ながら、教義や信仰のありかたからではなく、人間の出会いを通して「信仰にはいる」人間の在り方から、宗教というものを考えている書物です。因みにTさんの母堂は、Tさんがカトリックの洗礼を受けたら一緒に入信してしまったそうです。「大変だ。死んでも、同じところへゆけなくなる」と言われたそうです。そこが、また宗教の危ういところでもあり、また、強いところでもある事が対談の中で随所にでてきます。それは宗教は人間を孤独から救い出す反面、人間を一つの仲間に纏めて「我々は」という単位にして「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の集団の狂気(常軌を逸していること)を作り出してしまうといいます。Tさんは「宗教は日常に潜む狂気だ」と言っています。それには、長い長い訳があります。Tさんは、最初の赴任以来、久里浜病院でアルコール依存症の治療にあたっている精神科医です。一人の人間を「狂人」扱いをしてしまう国家はTさんにとっては、宗教だと言っています。「国民国家は新しい宗教だ。それを明治の指導者が知っていたかどうか別としても。日本は国民国家を造るにあたって、天皇制神道という古代まがいの宗教を作った。これが神風特攻のような自殺行為に力を与えというわけだ。……ともかくこの国家という宗教には人間を一括りに纏めてしまう暴力が働いている、少なくともアルコール中毒患者を狂人として扱い、個々の人間としては扱わない。それに対して人間を個々の命として扱う精神科医が必要になってくる。アルコール患者を一人の人間として扱うのも宗ということはかなりの宗教性を必要とする。患者を人間から疎外している国家のある方を、一つの宗教形態と捉えるなら、精神科医は人間を取り戻す側で孤独な戦いを続けているのだと申します。

 実は、私の知っている内科医に、この本の話をしたら、Tさんというのは久里浜病院の名誉院長の河野裕明先生のことで、今は脳出血で倒れて自宅静養しておられるが、牧師にはあって下さるかもしれないとのことで、時を作って戴き、お遭いしました。そこにはアルコール臨床の日本第一人者が、一人一人の患者の人間性、人間の弱さ、罪、救いを見つめ、生きてきたまなざしがありました。「断酒会」についてかつて書いたものを貸して下さいました。

「日本の断酒会は、教義としての明白な宗教をもっていません。……しかし、人間を信じ、無償の奉仕を中心にして、他人への奉仕が自分のためであるという思想的構造性としての本質的な宗教性を、明白に堅持しています」といっています。

 河野先生に言わせたら、既成の宗教が必ずしも、宗教性をもって一人一人の人間に関わっているとは必ずしも言えない、ということです。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」という言葉は「義」という言葉が含んでいる宗教性は「観念」ではなく、「義」は我々の行いを含めて、実現していく力なのだ、という響きがあります。

「行う」と訳されている言葉ですが、口語訳では「成就する」です。「満たす」という意味で、我々の行為が「義」の手段だということではありません。イエスに従っていく、みんなの小さな一つ一つ義が、神の義に繋がって、救いを満たしていくという意味です。

 かつて幼稚園の子供たちとみた映画のことを思い出します。

 森の中で一匹の鹿が倒れてきた立ち木の下敷きになってしまいます。角が邪魔をしてどうしても抜け出せません。そこへこ兎が通り掛かります。何とかして木を取り除けようとしますが、とても手に負えません。いじわるカラスがそれを見つけてしまいました。カラスは、森の奥のオオカミに良い獲物があると教えにいきます。一方、こうさぎの帰りが遅いのを心配して、お母さん兎が探しにきます。親兎も必死になって助けようとします。そうしてテコを使えばよいことに気が付きます。枯れ木を運んでテコにします。オオカミはカラスの案内で刻々と近づいてきます。こちらも森の小動物が気づいて次々にテコにのります。リス、鼠、かえる。いよいよ狼が近くになったとき、危機一発で、一匹のアリが木の枝から飛び下りたら梃子が動いて、鹿は助かります。

 救いは、考えてもみなかった奇跡であるには違いないのですが、その意味では「神の義」、神が導き生み出した赦し、受け入れられる関係なのです。それが「あなたがたの義」にまで展開された時、単なる教義から脱するのです。救済論は、マタイ的な発想ですと、奇跡には違いないのですが、アリの重さも含めての救いの完成の物語になります。

 教会が、世の暗さ、罪の問題を負いきることはできません。やってもやっても切りがありません。しかし、あり一匹の重さに、そして梃子に衝撃を与えることはできます。「神の義」がこの時代に、私たちの生きる喘ぎを通して証しされるために、愛をこめて励もうではありませんか。

祈ります。

 主よ、権力者とそれに続くものの奢りを砕き、虐げられるものを顧みて下さい。私たちの教団、教区がこの時代イエスの御心に従うものとなりますように祈ります。主の御名によって。アーメン

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「神、この人間的なるもの」後日談

神、この人間的なるもの(2014 西宮公同・礼拝説教)