1985年1月27日、降誕節第5主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん51歳)
コリント人への第二の手紙 4:16-18、説教題「見えるものにではなく、見えないものに」岩井健作
”だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。”(コリント人への第二の手紙 4:16-18、口語訳)
ここは大変親しまれている有名なパウロの言葉です。
16節に「外なる人は滅びても」とあります。
共同訳では「外見は衰えていくとしても」と訳されています。
私たちはひとつ苦労なことを背負いこむと、めっきり老けるという経験をします。
パウロも、エペソ滞在中の迫害を受けたこと(Ⅱコリント 1:8 以下)、加えてコリント教会との間の関係の悪化を経験して、外見の衰えは覆うべくもなかったと思われます。
どちらかと言えば、攻めの人であったパウロが守りにまわって用いたエネルギーは想像以上です。
しかし、彼はその中で、4章1節にあるように、彼の与えられている務めそのものが、神の(人からではなく)あわれみに拠るものであれば、困難は閉塞状況を意味するのではなく、衰えていく中にこそ神の選びの確かさを見る必要があることに気付かされていきます。
だから、外なる人は滅びても、内なる人(神との関係にある自分)は日毎に新しくされていくと語ります。
柔道7段のある教会の方が、柔道は受け身の中で相手の重心のくず折れを捉えて技を掛ける時、相手を超えることができる、と話していたことが思い起こされます。
信仰も、与えられた状況の中で、じっと待ち、耐え、状況の裂け目に、内なる人(神が用い給う自分)の働く契機を捉える生き方を促します。
受動的能動、受苦的能動の生です。
松下竜一氏の作品『記憶の闇』(河出書房新社「文藝」1985年2月号所載)を読みました。
「甲山事件」を描いたものですが、迫力ある訴えを持った作品です。
その中で、弁護士の働きというものが徹底して検察の論告を受けて立ちつつ、それを超えるものである点は感動的でした。
小田実氏が「まき込まれながらまき返す」生き方を、今の政治状況で市民に訴えていますが、それも受動的能動です。
見えるものだけに流されてしまうのではなく、それを超えるものに目を注ぐ生き方は、外見の衰えをもたらす厳しい状況に身をさらしながら、なお、それを突き破る生き方です。
そこには「永遠」からの招きがあります。
神の選びと召し、そしてあわれみがある故の生き方です。
「目を注ぐ」という言葉は「注意する(ルカ 11:35)、「警戒する(ロマ 16:17)」、「考えよ(ピリ2:4)」、「反省する(ガラ 6:1)」等々、慎重な生き方への促しです。
”わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。”(コリント人への第二の手紙 4:18a、口語訳)
真っ暗な状況でもじっと見つめていると、どこかほのかな明るさが見えてくるものです。
状況を凝視して、そこをまき返していく眼差(まなざし)を持って生きるよう、私たちは神の召しを受けていることを信じて歩みたいと存じます。
(1985年1月27日 神戸教会週報 岩井健作)
1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)
「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)