「宣教方針」へ寄せる想い

神戸教會々報 No.109 所収、1985.1.27

(健作さん51歳)

 この頃、パフォーマンスという言葉をよく聞く。週刊誌にも「パフォーマンス・ナウ!」などと用いられている。元来は「行うこと」で、演劇など芸術の自己表現の意味に用いられる。この語について最近示唆に富むエッセイを読んだ。中村雄二郎著『述語集 − 気になることば』(岩波新書 1984.9)である。それによると、パフォーマンスは単なる能動的行動(アクション)ではないというのだ。他から働きかけを受け、しかも身体性を帯びた相互作用のなかでのパトス(情熱・情念)的行動であるという。その行動は受苦的・受動的能動だという。受動的能動だからこそパフォーマンスの豊かさは、技術的生産の量的プロダクションの豊かさではなく、創造的豊かさなのだという。そしてそこには科学の知ではなく、パトスの知があるという。要約で真実を伝えにくいが、私はこれを読みながら聖書の説く「福音の出来事」に重ね合わせて味わった。イエスの生涯とわざは、「神の」パフォーマンスではないかと。それにしてはその出来事に応答する私たちの行動と知は何と貧しいことか。パウロが「隠された奥義としての神の知恵」(コリント第1 2:7)を求めているが、その知恵は、科学の知のようなものではなく、生き生きとしたパトスの知であろう。それをこそ祈り求めざるを得ない。


 さて、私たちの教会は今年は創立111年を迎える。110に加えられる1が、110年という伝統に拮抗し得るような質をもったものであることを願って新しい年度を迎えたい。福音の精神は日々新たにせられることである。その意味で教会の宣教は福音によるパフォーマンスであると信じる。

 昨年の「宣教方針」を読み返してみて、その時点なりの精一杯の課題が挙げられていると思う。それは牧師が起草し、伝道委員会と役員会の討議を経て手が加えられ、再稿を教会総会で承認した。その場では黙されたままであったが、その無言は重いと思う。それは言葉が好意へと託されているからである。そして一年が過ぎた。「宣教の方向性」「主日礼拝を中心に据えて」「役割分担について」「聖書の学びについて」「祈りについて」「教団・教区の課題について」「公益事業について」「財務」「教会史研究」「人事」「教会110年記念のこと」「年度の標語」。どれ一つも疎かにはされなかった。しかしまたどれ一つとして「御霊自ら言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」(ローマ 8:26)ことなしには、年度を越すことも許されない。

 今年もそれらを継承し内実化していくことが「宣教方針」となるであろう。特に挙げればやはり中心は「礼拝のある生活」を一人一人が地味に営むことにより自分たちの教会の宣教の基盤を固くしていく以外にない。私にとっては説教という重き任への道はるかなる研鑽以外にない。大方の叱責と祈りとをお願い致したい。さらに一つを加えれば、就園幼児人口激減化の公益事業の使命を支えていく課題であろう。

 何よりも一人一人が信仰によって生きる個性的な、創造的な、豊かな生を祈り求めていきたい。それが時代の風潮である「笑顔のファッシズム」と言われる管理主義や「個人」にまでしのびよる強固な支配体制に抗することであろう。主イエスに在る創造的生き方こそ、益々右傾化していく国の中での、信仰による証しと、諸課題を担う負い方であると信じる。