鈍さを生きる

鈍さを生きる

神戸教會々報 No.134 所収、1992.5.17

(神戸教会牧師 健作さん58歳)

わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう。 ヨハネ13:7


 神戸教会の婦人会を中心とした祈りと働きが実を結んで創設された頌栄保育学院は、百年の記念事業で、新しい分野への貢献に幻を抱いて、理事長・院長今井鎮雄氏とそれを囲む人たちによって頌栄人間福祉専門学校を開設させた。介護福祉や国際奉仕をめざす、幅広い年齢層の人たちが、ここで学び始めている。

 この学校のチャペルに招かれた。私は、この学校での最初の説教を「イエス、弟子の足を洗う」と題して躊躇なくヨハネ13章1〜11節を選んだ。ここにはキリスト教の基本が余すことなく語られている。

「弟子の足を洗う」という主要テーマは、奴隷の役目を師自らが子弟関係の中に引き込んだことで、人間の縦の上下関係の秩序を破って、「仕えられるべき者」が「仕える人」となることにより、「神の子」の歴史存在としての逆説が示されている。ヨハネ福音書では、高挙としての栄光は同時に「十字架」に挙げられること(12:32)との二重性で示されている。「仕える人」自身に神が成り給うたこと、このよきおとずれ=福音の事実が、このテキストにはありのままに示されている。この恵の出来事の中で「あなたがたもまた、互いに足を洗うべきである」(13:14)という戒めも語られる。神学的テーマ『福音と律法(倫理)』の展開もそこにある。

 4節も示唆に富む。イエスは「立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れ」たという。「人の褌(ふんどし)で相撲をとる」ようなことはしない。活動とか奉仕とか実践をする者は「他山の石」としなければならない。

 しかし、このテキストで注目すべきは、「主よ、あなたがわたしの足を」という疑問に現れているペテロの鈍さである。これに対してイエスは、冒頭に引用の「あとで分かるようになるだろう」と応える。

 私はかつて神戸YMCAの百周年記念集会メッセージで、ここをテーマにして、Yは今の時代に「あとでわかる」愛に、福音の理解においても、そこから導き出される倫理においても、徹せられるであろうか、という問を投げた。その問は、自分に対しても今も変わらない。

 けれども、時が少し経って、キリスト教界の救いの説き方が、特に「福音主義」を奉じる人たちの中で、「信仰義認論」に一切を包み込んでしまう説き方の傾斜が益々強くなることを感じる時、歴史の中での人の鈍さまでがその固有の役割までも毒抜きされてしまうことを恐れる。歴史存在としてのイエスの苦難は、その何百分の一であろうと、追体験を通さずには観念化されてしまう。鈍いものは悟りが悪い、この悟りの悪さが、歴史の現実とのきしみとなって「あとで分かること」を「あと」に残すのである。この「あと」は、神の与える終末まで続くであろう。観念的に救われきってしまわない「鈍さ」こそ、歴史の現実の人の苦悩に心を開く鍵なのである。

「仕える」べき課題は際限がない。鈍さが生を包んでいてこそ時の刻みを実感するのであろう。今、国会に「外国人登録法改正案」が出されている。永住資格のある人は指紋押捺強要から解放されるが、永住資格のない32万人には、新しい差別となる。この人たちの状況への心の鈍さも、その人たちから指摘されるまでは気がつかないのが、今の日本の大方の現実であろうか。私をも含めて。しかし、この鈍さが逆に、宗教や信仰の観念化を救う。