内在する罪《ローマ 7:7-25》(1992 週報・本日説教のために)・兵庫教区第46回教区総会のこと

1992.5.17、神戸教会
復活節第5主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

 ローマ人への手紙 7章・8章は、信仰によって僕とされたものが、律法とその働きの下にではなくて、聖霊の支配の下にあることを語る。

 7章6節の「律法から解放され、その結果、新しい霊によって仕えている」は、この段落の結論である。

 ”しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。”(ローマ人への手紙 7:6、口語訳)


 7章25節以下は、霊の支配にある新しい時代の明るさと、それまでの旧い時代の暗さとが対比される構造の中で、罪に支配されている暗さを語る。

 「律法は罪なのか」(7:7)というユダヤ人の問いは、「律法そのものは聖なるもの」(7:11)と受けつつ、律法によって顕在化される「罪」そのものの問題に迫る。

 罪が人間の弱さと絡み合うと14節では言っている。

 このような人間をパウロは「肉の人」と表現する。

 ”わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。”(ローマ人への手紙 7:14、口語訳)


 その克服は道徳的努力では超えられない。

 パウロは、罪との葛藤そのものを人間の実存的なこととして賞賛しない。

 「みじめな人間」(7:24)の悲惨を過去のものとして語り得る「福音」からの視点をはっきりさせている。

 25節の「感謝」は、その立脚点をあらわにしている。

 ”わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。”(ローマ人への手紙 7:25、口語訳)


 唐突になんの理論的帰結もなしに出てくるこの「福音」の視点をどう体得するのか。

 ここは祈り求める以外にない。

(1992年5月17日 週報掲載 岩井健作)


兵庫教区第46回教区総会のこと

(サイト記)第46回兵庫教区総会は1992年5月24日(日)午後3時〜25日(月)午後6時、神戸栄光教会にて開催。

 兵庫教区は、日本基督教団に属する16教区の一つである。

 兵庫県内110の教会・伝道所によって構成される。

 毎年5月に総会を行う。

 会場は、神戸教会と神戸栄光教会が交替に受け持ち、今年は5月24日・25日に栄光で行われる。

 神戸教会の議員は教職(岩井、橘)と信徒(T兄、I姉、F姉)の5名が出席する。

 今年は、教区役員は任期中(2年)であり、教団総会(1992年11月 第27回総会)議員の選挙が行われる。

 どの団体でもそうであるように、一年の活動が報告される。

 教区の運営は、議長(東島勇気氏)等三役と各部によって行われ、常置委員会が毎月審議にあたる。

 今年の主要議題は、通常のもの以外に、

 ①「補教師の聖礼典執行については、その教会の判断を尊重する」と決した、昨年の第9号議案をめぐって、教団の職制のあり方を問う件

 ② 教区の宣教の方向性を総括的に協議していく場がないために、その場限りの各部活動に総合性を持たせる宣教委員会を設置する件

 ③ 「合同のとらえなおし」をどうすすめるか

 等々がある。

 現在、岩井牧師は教区常置委員、教団常議員を務めている。

(1992年5月17日 週報掲載)


 岩井健作牧師:5月19日(火)〜20日(水)教団問安使として中部教区総会へ。

 5月10日礼拝後、伝道委員会。1992年度 神戸教会 夏期伝道集会に講師:青野太潮氏(西南学院大学神学部教授)、秋期伝道集会に講師:宮田光雄氏(前東北大学教授)を迎える準備。


 5月31日(日)神戸教会教会史『近代日本と神戸教会』出版記念行事。シンポジウム、ティーパーティ(神戸教会)、出版感謝会(神戸YWCA)の案内告知。


1992年 説教

1992年 週報

error: Content is protected !!