義の奴隷《ローマ 6:15-23》(1992 週報・説教要旨)

1992.5.10、神戸教会
復活節第4主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

「案ずるより生むがやすい」という諺がある。

 難しいと思われることも、やってみれば思いのほか容易で、取り越し苦労をするには及ばない、との意味。

 日常の卑近な体験を、深遠な信仰の世界の比喩に用いたりすると、「神学者」と呼ばれる先生方から顔をしかめられるかもしれないが、ローマ人への手紙6章15節〜23節を読んでいて、ふと心をかすめた諺である。

 それがこの箇所とどう重なり合うのか。

 ”それでは、どうなのか、律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか、あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよさに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。”(ローマ人への手紙 6:15-23、口語訳)


 パウロはこの箇所で、基本的に「信仰による義認」を語っている。

 元来、信仰の真理というものは、真理が客観的に一人歩きをし伝えられるというものではない。

 語れば、必ず曲解や誤解を生じかねない。

 そのような意味では、パウロの「信仰義認論」も二つの方向から攻撃にさらされた。

 一つは、ただ神の一方的な恩寵・恵みによって人が救われるのであれば、何をしても自由だ、という「無律法主義的」生き方である。

 コリントの教会の一部にいたこれらの人たちは、このような観点から霊的熱狂主義に傾斜し、他者と共に生きる節度を踏み破って放縦へと流れた。

 15節で「恵みのもとにあるからといって…」と言った人々である。

 もう一方は、そういうグループの人々が出てくるのは、そもそもパウロの「信仰義認論」の欠陥なのだ、と非難した人たちで、ガラテヤ地方の教会に影響を与えた、ユダヤ主義的キリスト教徒である。

 彼らは、律法は必要だ、と説いた。

 しかし、これを認めると、「救い」は努力によるという「行為義認主義」になってしまう。

 この双方からの、いささか悪意のある理屈に答えているのが、この箇所であり、またローマ人への手紙の展開である。


 17節の「しかし、神は感謝すべきかな」は、論理というより「信仰的接続詞」である。

 私たちも結局はこういう表現で自分の信仰的現実を表す以外にないことに気づくことがある。

 パウロによれば、「罪の僕」となるか「義の僕」となるか、「旧い時代」に生きるか「新しい時代」に生きるか、私たちはその緊張を生きる以外にない。

 「義の僕」に生きる手がかりとして「伝えられた教えの基準」(17節)がある。

 これは、ユダヤ教が中心にすえた「律法」ではない。

 しかし、「罪の支払う報酬は死である」(23節)という実際の地上の現実の只中で、上昇するか下降するか、の境目を乗り超える恵みの手がかりでもある。

 「奴隷 ”ドゥーロス”」の語をもって、歴史の中に生きる者の、重みと光栄が表される。

 ここに目を注ぎたい。

(1992年5月10日 週報掲載 岩井健作)


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