ローマ書について(1992 週報・説教補助)

1992.5.3、神戸教会
復活節第3主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

この日の説教、ローマ人への手紙 6:1-14「キリストと共に」岩井健作


 一人の人間がキリスト者であるということの背景には、想像を超える多くの要素がある。

 確かに、神学的・信仰的な事柄の理解から言えば「神の選び・恵み」「キリストによる啓示」「聖霊の働き」など、神の側からの救いのわざに、最終的・根源的に依拠したことではある。

 これを、どう言語化(告白化)するにせよ、その人の信仰の質、自分の生と死の受容に関わることだから、本人が自分の生き方や人生ではっきりさせる以外にない。

 しかし、「あなたの責任だ」と言われても、各人はそれを責任的にはっきりし得ると断言できるほど強くはない。

 その強くない部分を包み込んで共に歩む場が「教会」であろう。

 強くない部分と共に歩む、これが歴史の中に生きる者の課題である。


 ローマ人への手紙も、この歴史を歩む教会の産物であり、手紙の著作者のパウロの思考の個性やキリスト教の救いの理解の論理性が強いにしろ、やはり初期キリスト教宣教の大枠をしっかり捕らえることなしに、その真意を汲み取れないのではないかと思う。

 キリスト教の歴史が始まって以来、ローマ書は、キリスト教信仰理解の中心に位置してきた。

 キリスト教の内的な変革のエネルギーは、「ローマ書講解」という形でなされてきたことが多い。

 パウロ、アウグスチヌス、ルター、カール•バルト等を繋ぐキリスト教正統主義は、今も累々としている。

 しかし、近年、ローマ書も歴史の文脈で読んでいくという研究成果は、日本の教会でも身近に享受されるようになった。

 高橋敬基「ローマの信徒への手紙」(『新共同訳聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局 1991.1)などもその一つ、これは神戸教会文庫で所蔵している。


 さて、ローマ書は、パウロがまだ見ぬローマ教会の信徒に宛てた手紙である。

 二つのテーマがある。

 一つは、パウロ自身の福音理解(そうなった必然性を含めて)を、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ 3:28)という「信仰義認論」として明確にする。

 ”わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。”(ローマ人への手紙 6:28、口語訳)


 他方、異邦人教会が、この信仰義認論を教条的に曲解してしまうことからの実際的問題点について、イスラエルの歴史を通して示されてきた「神の契約」という歴史の遺産との連続性と断絶性の問題を「神の義」という主題で展開する。

 そういう意味では、この手紙は、個々の教会の牧会上の細部を論じたものではないが、ユダヤ教的残滓と戦いつつ、なお歴史が経験してきたテーマを後追いしつつ展開された、教会の書である。

 赤えんぴつを持って、新共同訳の「ローマの信徒への手紙」のページを繰ることをしてみては如何だろうか。

(1992年5月3日 週報 岩井健作)


1992年 説教

1992年 週報

error: Content is protected !!