イエスの最後 − 日常性の肯定(2014 聖書の集い・イエスの生涯から ⑩ 最終回)

ルカによる福音書 24章36-44節 ”弟子たちに現れる
(並行箇所 マタイ 28:16-20)

2014.7.16、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第80回、「新約聖書 イエスの生涯から」⑩

イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカ 24:43)

「我々が歴史的に確認できるのは、イエスの十字架を境にして、その前に師を見捨てた弟子たちが、その後に彼をキリストと信じ、宣教を開始したという事実だけである。彼らの振舞いのこのような転機が起こった原因としてあげうるのは、彼らが復活のイエスの顕現体験を持ったということのみであって、イエスの復活と顕現そのものの史実性を問うことは無意味である。」(『イエス・キリスト ー 三福音書による』荒井献、講談社学術文庫 2001、p,21)。

 (注)上掲「キリスト」とはヘブル語のメシヤ(救い主)のギリシャ語訳です。

 まず「復活」を「史実」のレベルで思考すること自体がこの事柄の本質に反するということを、確認しておきたい。

「復活」は常に「復活信仰」を含意する。「復活信仰」とは、刑死し、神に捨てられたかに見えたイエスに対し、神が決定的な「然り」を宣したという告知であった。

 それは同時にイエスの地上のわざにたいする「然り」を意味し、告白する信徒の側から言うならば、それは、到底一人前に扱われる資格なしと自他ともに決めていた自分を一人前に遇したイエスのわざに対する「然り」であった。

 宗教的にも社会的にも軽蔑され、無視される階層に属していて、現状が好転しているわけではないのに、確固たる人間として扱われる経験への確信であった(佐竹明『新約聖書の諸問題』新教出版社 1977、p.62)。

 原初の復活信仰の担い手たちは社会的「無資格者」であったことを見過ごしてはならないとは、荒井献の指摘である。さらに、最底辺層ではない人々は「復活信仰」を宗教的実存の自覚として表現したので、イエスを「私たちの罪のために十字架につけられて死んだ」と再解釈したと思われると述べる。その場合「復活のキリスト」は必ずしも「ナザレのイエス」とは重ならないという。

「復活」について「十字架の死の有意義性」と意味づけるのは、聖書学者ブルトマンであり、死と生の二重性と表現したのは、文学者・椎名麟三である。

『キリスト教文学事典』(教文館 1994)は「キリスト教の核心をなす信仰内容で、神の新しい創造のわざによって人間が永遠の生命へ参与することをいう」(百瀬文晃)と記す。

『岩波キリスト教事典』は「復活」を次のように記す。「イエスの死に対する神の肯定が語られ、生前のイエスとの有機的な関連がまず問われなくてはならない」(『岩波キリスト教事典』岩波書店 2002、青野太潮)。  

 さて、私は「復活」をどう捉えるか。

 ルカ福音書の記事にあるイエスが焼いた魚を「彼らの前で食べられた」という記事に示唆を与えられる。

「食べる」という営み(生のすべての根源である)はやがて「死」に終わる。「食」が「死」で終るにも拘らず、なおそれが肯定され、意味あるものとされている。

 椎名流に言えば、「死んでいることも本当であり、生きていることも本当である」。死と生の二重性、「死」の相対化に「復活」の意味を見出したい。

 神学的には、いろいろ表現の仕方がある。パウロは「神は御子を私のうちに啓示された」(ガラ1:16)と表現する。

……わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた……(ガラテヤの信徒への手紙 1:15-16、新共同訳)

 日常性(身体的に生きていること)というものは「死の影を常に負う」。限りなく重たいものである。しかし、それが重たいままで、肯定されていること、重たいままで「軽やかさ」を与えられていること。「復活」はそのような意味ではないか。

 それはイエスという人格(神の出来事)につながって生きることを意味している。そこに信仰者の実存がある。

シリーズ「新約聖書 イエスの生涯から」全10回はここで完結です。
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▶️ ① イエスと父の関係 – ヨセフはいつ死んだのか

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