子どもの死の意味を考える (4)

「子どもの文化」2002年1月号所収(子どもの文化研究所)
2005年版『地の基震い動く時 – 阪神淡路大震災と教会』所収(コイノニア社 2005)


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 たとえば、現在は生かすことだけの医療が行きづまって、ホスピスなど、どのように死を迎えるかという、その人の死を含めて尊厳を考えるべき医療に対する価値の転換が必要になってきています。日本の文化の中では、死から始まる文化はどうなっているのか。日本の高度経済成長から始まった価値観というものは、明治維新から始まる富国強兵の続きであるから、発展するのはいいことだ、というのが中心にあって、死をその発展の国家目的から意義づけることはあっても、死というものを不条理のまま、静かに受けとめる文化がつちかわれないままでした。

 逆に震災では、そういう不条理の死をひじょうに多く目の当たりにさせられました。私はここに文化の転換が求められていると思います。たとえば宗教について言うと、教義に属するような宗教的な観念だけで、これを片付けない方がいいと思っています。そういう意味では、死の意味に対する宗教のあり方も問うたのが地震です。

 では、新しい価値観、人間のための新しい社会をつくるために、私たちは今何をしなければならないのか。宗教というものは、一つの概念領域に死を位置付けることによって社会の安定を図るという側面があります。もしそうであるならば、それはまさに現実社会のアクセサリーとしての宗教なのだと思います。私は、宗教とはそういうものとは思っていません。死が発しているものの重さを、ありのままに受けとめるものだと思います。

 これが子どもの死に対して思うことです。死んだ者のことについて、ほんとうに真剣に考えるということは、自分の宗教の死生観でもって供養することだけにとどまらないで、それをもう少し文化の領域まで発展させることが宗教者の責任であると思います。死んだ者を媒介にして、生き残った者がつながっていく共存の文化を創り出すのが、宗教者の責任なのではないでしょうか。生と死が二重に重なった文化です。


子どもの死が問う「大人の文化」

 第三は、子どもそのものが独立した存在であるということ。子どもが発信源であるとでも申しましょうか。子どもの位置付けというものの明確化が必要です。
 子どもの持っている永遠性というものがあります。聖書の言葉で言えば、「幼子のごとくにならなければ、神の国に入ることはできない」(マルコ福音書)ということでしょうか。良寛の短歌で言えば、「この宮の森の木下でこどもらと遊ぶ春日はくれずともよし」といった詩の世界でしょう。大人の存在や大人の価値観では包み込めない、人間存在の独自な「関係」があります。聖書は人間を徹底して関係存在と捉えますが、子どもの存在が象徴する関係は、永遠のアナロジー(類推)なのです。

 宮崎駿が『千と千尋の神隠し』で描いたような子どもの「世界」があります。あるいは河合隼雄が論じているような子どもの「宇宙」があります。子どもの存在の意味をそれぞれ専門領域で問い直していくことが、あの514人の子どもの死を忘れないということだと思います。死んだ子どもの存在が、私たちの日常を問い、死を通して、もっと「生きる」ことが促されているのです。今の時代、子どもの文化がどんどん失われています。それを取り戻すことは、地震の中に生きた子どもからの大切な問いです。

 まだ余震が危険で、半壊のマンションには帰れないまま、避難所生活を余儀なくされている園児を、幼稚園の教師や教会の大人が見舞ったときに、青木直人さんが詠んだ一句です。

避難所を「おうち」と呼ぶ児 枯野星

 パレスチナのガザを訪れたとき、あの戦渦の中で子どもが笑って迎えてくれました。子どもは「救い」の象徴なのです。
 「世界中の子どもたちが一度に笑ったら、空も笑うだろう、ラララ、海も笑うだろう……」新沢としひこさんの歌が心に響いてきます。

(健)