2012.7.29、明治学院教会(281)聖霊降臨節 ⑩
(単立明治学院教会牧師7年目、健作さん78歳)
レビ記 19:17-18、ヨハネの手紙一 4:13-21
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一 4:18、新共同訳)
1.3.11以後を生きる者たちにとっては、
関西電力の社長の「原発を次々に稼働させる」と公然と言い放つ言い方(7月25日)には、この時代の「神を畏れない冒涜、人間の傲慢」の象徴を覚えざるを得ません。
「フクシマ」の核惨事犠牲者の苦悩と核廃棄物の根本的処理方法のない現実を覚える者にとっては、「今の苦悩を思え」「神を畏れよ」「謙虚さを知れ」と、この人に叫ばざるを得ません(はがきを出しました)。
2.聖書(新共同訳)は「畏れよ」と語ります。
「神との関係」での人間の傲慢、そして自己中心、私利私欲を厳しく戒めます。
例を引きます。
「主を畏れることは知恵の初め。」(箴言 1:7、新共同訳)
「生きている限り、あなたの神、主を畏れ、…」(申命記 6:2)
「その憐みは、…主を畏れる者に及びます。」(ルカ 1:50)
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ 5:21)
など「畏敬」の文化に注目したいと思います。
3.他方、権力・資本の恫喝に屈していては、
弱い命(例えば放射能の中の乳幼児)を守ることはできません。
「フクシマ」では、若い母親が必死の闘いを継続しています。独善的な力を恐れていては、守るべき命を奪われる危険があります。
4.聖書は「恐れてはならない」と語ります。
例を挙げます。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」(創世記 15:1)
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」(出エジプト記 14:13)
「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(イザヤ書 7:4)
「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(ルカ 2:10)
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。」(ヨハネの黙示録 1:17)
神共にいます故に「恐れない文化」こそ民主主義の系譜ではないでしょうか。
「神を畏れる故に、人を恐れない」。これが信仰者の基本的生活態度です。
5.ところが、ヨハネはこのパターンで「恐れ」を語りません。
そもそもヨハネには外から迫る神、告発する神は出てきません。
内にいます神、宿る神、愛する神、が出てきます。
「神がまず私たちを愛してくださった」(ヨハネの手紙一 4:10、4:19)
「神はご自分の霊を分け与えてくださいました」(4:13)
「神は愛です」(4:8、4:16)
大胆にも
「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」(4:17)
と言います。
ここまで言って良いのでしょうか?
そして兄弟への愛は当然のように命じられます。
「神は愛である」(説明ではなく出来事)から「愛の主体たれ」と徹頭徹尾、促されます。
「畏れ・恐れ」の関係が持っている「告発・問題提起・恫喝」を超越しているのです。
かつて被差別部落の解放運動では「糾弾」がつきものでしたが、ある運動家から「信頼」から出発しようと言われて、「被差別」には無理解で弱い者も、主体を喚起されて、恐れからではなく、信頼から運動に引き入れられていくという経験を持ったことがあります。
ヨハネは神の愛の確かさ故に、愛の主体たるべき責任を人に預けるのです。
そして、人と人との愛の経験には神の愛が投影されていることを暗示します。
自分の責任で人を愛する(たとえ不完全でも)主体であれ、との促しがまず先なのです。
愛は隠された遺産なのです。
足元の遺産を掘り起こす生き方です。
「ぶどう畑の宝物」の寓話を思い起こします。
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