小泉首相の靖国参拝に強く抗議する(2004 憲法9条)

2004.1.13 執筆、掲載誌不明

別のタイトル候補「靖国をイラクに連動させてはならない」
「国家は死の意義付けをしてはならない」

(川和教会代務牧師、70歳)

「参拝するのは当然」

 小泉首相が1月1日、東京・九段北の靖国神社に参拝した時、境内にいた葛飾区の69歳の男性はマスコミの記者にこう語ったという(朝日新聞 1/3)。

 69歳の男性の方よ、戦争をするためには国家が死を美化しなければならないから、あなたの言うように「当然」なのです。

 だが、戦争で「死んでいった人」のことを「お国のための」軍人だけではなく、非戦闘員の人々に、戦争の相手国の死者に、少し心を広げて考えて欲しい。

 平時の安らかな死からみれば、非業の「人間の死」ではないか。

 しかし、それぞれの死には、個別の喪の作業がある。日本の人々の死も、侵略で殺されたアジアの人たちの1人1人の死も、そのことを今も訴えている。

 個々人の死を、一般的意義で締めくくってはならない。死とはそのようなものである。

 まして国家が意義付けすることは人間の尊厳への冒涜である。

 中国の王毅(ワンイー)外務次官、韓国の尹永寛(ユンヨングアン)外交通商相が「被害国人民の感情」「過去の歴史認識」からのこの「参拝」に強い抗議をしたことの根底には「無辜の民」の死の悲しみがあるからだ。

「百万人署名運動」の山口県の呼びかけ人・中谷康子さんは「殉職自衛官合祀拒否訴訟」の原告である。自衛官公務中に事故死した夫を、自衛隊(国)が護国神社(靖国神社と同質の機能を持つ)に祀ったことに抗議して裁判で(1972-1988年)戦った。

 1・2審は勝訴、身近な者の死を静かに祈念するのは宗教上の人格権であることを意義付けた。だが最高裁では不当にも国の一方的関与の事実をぼかし、民間団体「隊友会」の合祀行為に中谷さんは「寛容」であれと、敗訴になった事件である。

 時あたかも大嘗祭の直前であった。国家と死者の宗教的祭儀の分離を認める訳にはいかなかった。最高裁の裁判は、国家が死者の意義付けを行い、「宗教的」な祭祀を「護国・靖国」ですることで、「死」の拡大再生産に人々を動員する筋道を固めた、と言ってよい。

 靖国神社は戦死者を祀る「有事(戦争)体制遂行」のための国家装置なのである。

 イラク派兵を実行する小泉首相には自衛隊員の「死」は予測可能なマニュアルに入っている。隣国諸国がなんと言おうと靖国神社で「国家的死」を締めくくらねばならない。

「初詣」とたぶらかしてしたたかに参拝をするなど、決して許せない。

「戦死」を美化しなければ、戦争の遂行はできない。改めて首相の靖国参拝に抗議する。