十字架の死に向かいあう(2004 東神戸教会・礼拝説教)

2004.1.18 東神戸教会

フィリピの信徒への手紙 2:6-11

交読詩編46、讃美歌21−57(ガリラヤの風かおる丘で)、讃美歌21−298(ああ主は誰がため)、讃美歌21−470(やさしい目が)

 地震から9年目を迎えました。兵庫教区の子供コンサートも9回目になります。あのコンサートのパンフレットに、私は追悼文をずーっと書かせて戴いていますが、今年はこんなことを書かせて戴きました。

「死からものを考えない文化は人間を希薄なものにします。地震による死者を忘れないで、と続けてきたコンサートが今年も出来て良かったとしみじみ味わいます。それにしても、今年はどこか心の隅で、戦争のことが体でうずいていませんか。地震と戦争は関係がないのにそのうずきが似ています。体が覚えてしまったこみあげる激震は戦争との共通感覚を呼び起こします。アフガニスタンで、パレスチナで、イラクで、そうしてあらゆるところで、子だもたちは今日も死んでいます。どうしてこんなことが許されるのでしょうか。」

 子供の不条理な死は、わたしたちの心をえぐるように「それでよいのか」とわたしたちの存在を問うています。「不条理の死に向きあうこと」と「イエスの十字架に向き合うこと」とはどこかで重なり合っている様に思えます。

 そうして、聖書のなかに「不条理な死に向き合っていて、不安な気持ちを持っていても良いのだ」というメッセージをききます。それが今日選ばせて戴いた、フィリピへの信徒の手紙の2章6節から11節の中の「十字架の死に至るまで」という言葉です。

 今日お読みしたところは一つの詩です。キリスト賛歌と言われているもので、初代の教会で歌われていた讃美歌の引用だ、というのがほぼ通説です。

 賛歌は2章6-8節と9-11節の二つの部分に分けられます。

 前半は、キリストが人となった事を述べ、後半は神が彼を高くあげたと歌っています。
 前後半では、主語が違う。前半は人となることをキリスト自身の行動と記しますが、後半は神が出てきます。

 研究者は、この賛歌の背景には、ヘレニズム・ユダヤ教の「知恵」についての神話が想定される、と言っています。
「知恵」は先在者として神の下にあったが地上に降り人間界に宿ったのち再び天に上がる、そしてそれによって救済者としての働きをするという神話です。

 ところが、初代教会の讃美歌は、それをちょっと違った意味に造りかえました。

 6節。「キリストは神の身分でありながら」。「身分、かたち」は存在様式、あるいは本質を指す。先在者は神的存在として留まる事が可能であった。しかし、自分をむなしくして、神と等しくある事を放棄する。ここには、Ⅱコリント8:9の「キリストはあなたがたのために貧しくなられた」と言われていることと同じ意味があります。神であることを止めて、完全な意味での人間になった、といわれています。

 7節。人間となったことの事実の重さが語られます。
「僕の身分になり」とあります。「僕」は徹底的意味で人間である事を指す言葉です。

 8節。「へりくだり」は低くする、「従順である」はキリスト(つまり救済者)が徹底的に人間であった、その徹底性を歌ったのが初代教会の讃美歌だといわれています。次の「死に至るまでも」などという言葉は初代教会が、死んでこそ生きるという逆説をよくわきまえていたことを示しています。

「死」はヘレニズムユダヤ教において、しばしば人間を支配するとてつもない勢力として捕らえられていました。この賛歌の背景になっている、ヘレニズムの救済神話では、天から下ってくる「先在者(先立っている者)」という「救済者」はその死に支配されていないという考えです。天から下ってきて、人間を救済してまた天に帰っていくという救済論です。救済者が死んでしまっては、救いにならないのです。死ぬはずはない。

 例が適切かどうかは分かりませんが、TVの番組に「水戸黄門」のお話しがありました。今でも放映されているかどうか分かりませんがお話しの結末は大変明快なのです。権力を持った悪い奴がいて庶民を苦しめるのですが、お忍びで身分を伏せた黄門様がそれを知り、最後に黄門様のご家紋を掲げると、悪者はそれに平伏し悪を悔いるという筋書きです。掲げられたご家紋の権威が救いになります。救いは彼方からやってきます。黄門様は決して死なないのです。

 ヘレニズムの救済神話は水戸黄門様のように、天からきて、救いをもたらし、天に帰っていくという構造です。ところがフィリピに出て来る「キリスト」は、死ぬのです。人間になったことの徹底化は「死」なのです。しかし、ここでちょっと考えておきたいのですが、この讃美歌は、「キリスト」が死に至るまで人間になられたということ、なのでヘレニズム神話の救済論とは違うのです。

 でも時が経つと、また事情が変わってきます。
 この讃美歌を歌い始めた頃の人は、イエスの非業の死に対する、自分の罪責の大きさ、そして、イエスの死の出来事に、感動の体験を持っていたのだと思います。しかし、それが次の世代に語り伝えられた時、言葉だけが伝わって、その感動の中身が新たな出来事にならないで形骸化されたのだと思います。

 讃美歌でもいつも歌っていると、言葉の重みが抜け落ちてしまって、言葉だけが上滑りを起こすことになってしまうことがあります。歌というのは本来原初の気持ちを再現してこそ歌なのですが、伝わるうちに風化を起こします。

 例えば、今私たちが歌っている歌でも、そのようなことがあります。マルチン・ルターの作詞作曲の歌に「神はわがとりで」という歌があります。54年版267番、讃美歌21では377番です。その4節を歌う時、ちょっととまどうのです。

 最後に「わが命、わがすべて、取らば取れ、神の国は、なお我にあり」とあります。原文では「我が妻子も」となっています。私など少年の時、父親(牧師でした)が声を張り上げて歌うと、伝道者になったら妻も子も顧みないのか、とまじめに考えた時期がありました。翻訳は「わがすべて」となって少しぼかしています。でも「すべて」と言ったってこの歌を歌っている人は、神の国をそのように直裁に考えている訳ではなく、相当に割引して歌っているのではないかと思います。作詞したルターは本気だったのだと思います。

 こんな具合にフィリピの詩も「死に至るまで」のところが、慣れっこになって、その凄さが薄れていたのだと思います。

 注目していただきたいのは8節です。「死に至るまで」に続けて、「十字架の死に至るまで」とあります。研究者は、一致してこの句は、パウロが元々の詩に付け加えたものだとする事を認めています。

「十字架の死に至るまで」とはどういうことでしょうか。

 パウロにとって十字架というのは、それ自身が決定的に救済論的意味を持っているのです。パウロより以前の初代の教会の「信仰告白定式」には十字架という語が使われる例がほとんど無い、と言うことです。何故、パウロが十字架にそこまでこだわったかは、死ぬことによって、生きるという逆説を経験した人であったからです。

 律法による自己実現に死んだ人です。古い自分に死んだ人です。

 小磯良平が聖書の挿絵にパウロを描いている。それはパウロがダマスコ途上でひっくりかえっているところです。よくパウロを掴んでいるなと思います。ぶざまなパウロです。

 その意味では、イエスはぶざまに死んだ人です。このようにいうとイエスは、神の子だから「ぶざまに」死んだのではなくて、救いの実現のための贖罪死したのだ、という人が多いと思います。

 しかし、十字架というのは自然死ではありません。周知の様に重罪を犯したものの極刑です。最近必要があって、私は昨年10月に出版された、大貫隆さんの『イエスという経験』という題の本を読みました。そこには、十字架刑とはどういうものであったか、ローマ帝国が政治犯をなぶり殺すのにいかに苦しませて、みせしめにして殺したかが克明に書いてあります。とても読むことはできないので、ここでは読みません。パウロは自分が無様にひっくり返ることで、そのぶざまなイエスに出会ったのです。

 十字架の死に至るまで従順で、とは無様な死に至るまでということです。そうして、一人一人が、そのことを繰り返すところに救いがある、という促しです。

「十字架の死に向かいあう」というと、十字架の出来事を「キリストの贖罪」を表すものと理解して、それを出来上がった救済として信じなさいということではないのです。ヘレニズムの神話の救済論が水戸黄門の話だとすれば、死ぬことによる救済論の例と呉鳳の話があります。救済論は何時でも自分の死と結び付いて初めて現実のものになります。

 台湾の民話です。
「台湾の蕃人には(蕃人という言い方が適切かどうか分かりませんが)、人の首を取ってお祭りに供えるという風があった。阿里山蕃の役人になったばかりの呉鳳は、何とかして、自分の治める部落だけでも、この悪い風習を止めさせようと思って、いろいろ苦心をした。『人を殺すことはよくないことである』こういって呉鳳は、しばしば蕃人に説ききかせた。しかし、お祭りが近づくと、ぜひ首を供えねばならないと申し出た。呉鳳は『去年取った首があるはずだ。一体幾つあるのか』『四十余りあります』『それでは、その首を大切にしておいて、これから毎年一つづつ供えることにするがよい』蕃人は諭されてしぶしぶ引き下がった。呉鳳は元来情け深い人で、蕃人を非常に可愛がったから、蕃人も次第になついて、のちには呉鳳を親のごとくに慕たうようになった。こうして阿里山蕃だけはしばらく首取りのことも止んで平和が続いたが、外の部落では、毎年お祭りがある度に首を取って供えていた。それを見るにつけ阿里山蕃の蕃人の心は動いた。四十余年は何時のまにか過ぎて、もう供える首が一つもなくなった。『今年こそ新しい首を供えなくてはならない』と言うので、蕃人はそのことを呉鳳に申し出た。『もう一年待ってくれ。人を殺すのはよくない』となだめた。翌年も、翌々年も同じことが懲り返された。蕃人はそろそろ呉鳳の心を疑う様になった。そうして四年目にはもうどうしても呉鳳の言うことを聞こうとはしなかった。『それ程首が欲しいなら、明日の昼ごろ、赤い帽子をかぶって、赤い着物を着て、ここを通る者の首を切れ』と呉鳳は答えた。翌日、蕃人どもが役所の近くに集まっていると、果たして赤い帽子を被り、赤い着物を着た人が来た。待ち構えていた彼らはたちまちその人を殺して首を取ってしまった。意外にも、それは呉鳳の首であった。親の様に慕っている呉鳳の首であった。蕃人どもは声をあげて泣いた。彼らは呉鳳を神に祭った、そうしてそれ以来阿里山蕃には首取りの悪習がぷっつりとなくなった。」

 この話の最後で「彼らは呉鳳を神に祭った」とありますが、彼らはもうそれしかできなかったのであります。

 ここに見られる救済論は、呉鳳は死ぬことを通して、彼らをあの悪習から救ったのです。イエスの弟子たちが、イエスを救い主としてあがめたのもこのようなイエスの死を通してであったのだと思います。問題はそれからです。それを出来上がった「贖罪論」として信じればよいということではないのです。「贖罪論」を信じ込むということと、「贖罪論」を自分のこととして生きるということは無限に遠いことです。

 さて、阪神淡路大地震9年目の巡り来る1月17日を迎え、改めて地震で亡くなった6433人のことを覚えます。不条理の死です。不条理というのは、意味付けができないと言うことです。その中でも、将来に多くの可能性をもっていた子どもたちの死はほんとうに不条理の死です。その意味を尋ねることは、深山に分け入る如くです。残されて生きはじめるものたちが、これら一人一人の「子ども」の死の重さを負って生きる以外にない。重さを負って生きるとは、何故だ、という問いを負って生きると言うことでもあります

 もう2年前のことですが、長田区の日吉町にあるG喫茶店に立ち寄ってみました。この辺りは、とても地震がひどかった所です。喫茶店には運良くマスタ−のMさんがいて、久し振りに声をかけました。「和雄君も芳子さんも、もうすぐ7年になりますね」「そうなんですよ。この間、芳子宛てに、成人式の衣装の広告がダイレクトメールで送られてきましてね。ひとの気も知らないでって、家内が怒って破って捨てていました。」こんなお話が帰ってきました。「生まれた年月日を探し出して、ダイレクトメール用に売る会社があって、それを使って衣装店が商売しているんでしょうね。地震なんかなかった事になっているんです」と、自分達の苦しみが素通りされていく事に、怒りとも、やるせなさともつかない気持ちを投げ掛けてくださいました。

 あの日、15歳と12歳だった和雄君と芳子さんは、一階に寝ていました。ご両親は二階でした。そうして二人のお子さんは帰らぬ人になったのです。あの時の様子を、現場でつぶさにお聞きしました。「まだ、ほんとうには、子供たちと向かい合っていないんでしょうね。その分、毎日を忙しくしているのです」。

 お店は増築されて、前より大きくなっていました。「あの子たちの思い出に建てたのです」。そういえば、そこは二階が倒れた場所でした。

 日常の長い長い営みを通して、なぜ、この子が死んで、私が生きていかなくてはならないのか。子どもさんの死と常に向かい合うということは実存的な時間で、忙しくしているというのは日常的時間で、その二つの時の攻めぎあいを生きておられるのだなと感じました。死の事実がこちらの存在の意味を問い続けています。しかし、問われることはしんどいことなので、いつの間にか無意識のうちに問わないようにして、忙しくしてしまっているのも本当なのだなと思いました。

 さて、今日は、わたしたちはイエスの死にどう向かい合っているのかを聖書から見直してみたいと存じます。

 イエスの死をどう受け取るか。全く違う二つの受け取り方。遠藤周作のイエスの生涯に記されている受け取り方です。神の子として受難の道を歩まれたのだ、神の子羊として贖罪の死を受苦的に受けられたのだ、という考え方です。この場合、イエスの死が持っている不条理というものが消えてしまいます。

 バッハの「マタイ受難曲」はもちろんそのような解釈です。それは新約聖書の福音書がそのような解釈だからです。キリスト教の正統主義の信仰告白はそのような解釈です。「御子は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いになりたまへり」とあります。これは一つの出来上がった救済論です。それはそれで、完結しているのです。

 こういう救済論に寄りかかってしまうことが、本当にイエスの死と向かい合うことなのだろうか、という問題提起を「十字架の死に至るまで」という言葉は持っているのではないだろうか、パウロ自身がフィリピの手紙で行っているのではないでしょうか。

 大貫隆著の『イエスという経験』(岩波書店 2003年10月)はそのような問題提起をしている本です。イエスは、自分の死の意味が分からなくなって絶叫して神への問いかけをしながら死んだというのです。実は、歴史のイエスについて書いている人は、荒井献、田川健三、佐藤研、という方たちは多少の違いはあるのですが、みんなそのようにみているのです。

 実は、このことを教会で受け止めることは大変なことです。
 フィリピのキリスト論には、「死なない神」の救済論と、死を通さなければ救済はない、という救済論との攻めぎあいがあります。

 原始教会の復活信仰が、初めはイエスの死という出来事に圧倒されてでてきたのに、いつの間にか、するっと平気で、解釈される死になってしまった。出来上がった信条を信じればよいということになってしまった。このことを、解釈された死からみるのではなく、あのイエスの死から、もう一度見直そうというのが「十字架の死に向かい合う」ということであります。「死に至るまで」と「十字架の死に至るまで」との質的違いがある。

 大貫さんは、こんな例を使ってそのことを言っています。(阪神の物語を9回の逆転劇から見るか、はらはらする試合運びをたどって見るかの違いです)。解釈された「キリストの死」から「死」をみるのではなく、歴史に生きた1人の「人間イエスの死」からみる、の違いは大きい、ということを言っているのです。そのことはとりもなおさず、わたしたちが現代の不条理な死に向き合うということです。

 第二次大戦下、ドイツのナチの収容所で、見せしめのために、無造作に人が殺される。首を吊られて引き上げられていく仲間を見て、1人の人が神はいるのかとつぶやくと、そこに居合わせて牧師が、神は今眼前につり上げられている、あれが神だと答える。「十字架の死に向かい合う」ことなしに、わたしたちは神とは出会わない。不条理な死と向き合うことは、十字架の死に向き合うこと、神に向き合うこととつながっていると信じていきたいと思います。

牧師の日記(2004 川和)

十字架の死に向かい合う(1)震災から9年 2004.2.15 中濃教会

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