『イエスという体験』を教会の現場から読む(2004 読書ノート)

2004.1.6 執筆、未発表テキスト、この後「宣教学」や「寿・神学」に。
『イエスという体験』(大貫隆、岩波書店 2003年10月)

(川和教会牧師代務者 -2004.3、70歳)

『イエスという体験』(大貫隆、岩波書店 2003/10)

1.今回誘いを受け読んだ。研究者中心の座談会でどこで関わるのか不安があり、わたしの感想を纏めてみた。

2.同氏はおよそ30年余り新約聖書学の研究に携わってきた。若き日の研究の動機には「キリスト教原理主義」への批判があり、それはまた研究の底流を流れ続けていた。いわゆる「9・11」以後アメリカ大統領ブッシュは「テロ」への報復戦争を「神の正義」をもって正統づけた。そこには、この大統領を支持し、またその報復戦争を支持した政治基盤が「キリスト教原理主義」に立つ保守層によって強固にかためられたことがあった。

 この書は「目の前の時局に対しては間接的ではある」という。しかし新約聖書学徒としての大貫氏には、キリスト教原理主義を根本的なところから批判すべきエネルギ-が彷彿とわき起こる。「イエス自身はこの戦争をどう見ているのか」の「イエスの今」を探ることが切実なテーマとなる。

 それは、イエスの死後で弟子たちによって確信された「復活信仰(キリスト教の『基本文法』と表現)」から見ることではない。「『標準文法』は所詮『標準文法』なので」(p.Ⅶ)「史的イエスの言動と最後」から「『脱構築』的に(自己反省的)」に見ることを試みたという。

「史的イエスの言動と最後」とは何か。イエスは「神の国(支配)」を宣べ伝えるために呼び出された1人の人間であった。その古代人としての人間イエスを如何に探りだすかに、今まで難解中の難解とされていた福音書中の「イエスの言葉」を、生前のイエスの言動の底流にあるイエスの思考の相互性を構成している「意味のネットワ-ク(イメ-ジ・ネットワーク)」を探りだすことで、繋げ、イエスの行動の一貫性を捉える。

 それによれば、イエスは現在化している「神の国」を確信し、かつ宣べ伝え、そのため生涯の最後には、エルサレムに上京し、そこで事態の暗転に直面する。逮捕、裁判を経て、深い沈黙に沈み、遂に「自分自身にとって意味不明の謎の刑死」により、十字架上に殺される。その最後は自らのイメ-ジ・ネットワークの破滅に立ち至り、絶叫の「未決の問い」(p.215)をもって生涯を終わる。

 大貫氏は氏より以前の「イエス」についての論述(非神話化の現代的意味の取り出しを急ぐ論述)を超える視点として「古代人イエスの今」を強調する。それは「非神話化」に対して逆のいわば「再神話化」であり、さらに「原始キリスト教の成立」に対しては「新しい非神話化」を試みることだという。

 そこには、「イエスが十字架上に発した断末魔の絶叫は、人間には神話を現実に生き抜くことはできないことを証ししている」(p.236)という非神話化は、イエスのイメ-ジ・ネットワーク全体に対してこそ行われるべきであるとの促しがあるという。

 大貫氏の主張は、決してブッシュの戦争への直接批判ではない。そこに至るまでにはキリスト教界に投げ掛けられた幾つかの層がある。

3.我々、教会の宣教と牧会の現場にあるものにとってのこの本へのアプロ-チとは何であるのか。

 イエスについての論述の「資料の選択」「イエスについての学説の流れの中での位置付け」について、学的レベルの批評は持ち得ないことをまず明らかにしておきたい。

 しかし、聖書はなぜ研究されるのか、と言えば、それは現在の状況に「神の語りかけ」として、現代の「教会」という場で、現代に生きる「説教者」によって語られるという「行為」と関わりがある。批判的であるにしろあるいは補完的であるにしろ、そこに「支え」を送るという機能を宿しているゆえに研究される、というのが現場の理解である。

 それゆえ、その受け止めは、我々が携わっている「宣教の方向性」にとって、何を汲み取り、何を自分への批判的視点として吸収するかにある。このたびの大貫氏の労作は、超大国アメリカによる世界支配にキリスト教原理主義が深く関わっており、原理主義批判なくしては、その「世界支配」の一角を崩すことはできないとの確信があり、それはまた新約聖書学と深く関わりがあると言うことが、著者の理解であると思う。

 そのような理解に立って著者の提起する問題を私なりに整理させて戴くと、この本の問題提起を四つの層で受け止める事ができると思う。

4-1.第一は、まず、キリスト教原理主義の背景にはキリスト教正統主義の土壌があり、キリスト教正統主義はイエスの死後、弟子たちによってよって確信された「復活信仰」にもとずいている。それは「歴史のイエス」とは区別されなければならない。この区別が、今の大方のキリスト教ではなされていない。現場の教会から言えばこの「区別」をどのようにして実行あらしめるかと言うことであろう。この作業を抜きにして、聖書を今生きている歴史状況に適用させると、イデオロギ-的には「戦争」でも「平和」でも、聖書記事からは恣意的に引き出せる。ブッシュはそれを行った。そのような聖書の読み方は止めねばならない。

4-2.第二は、キリスト教の「基本文法」(p.222以下)は、生前のイエスが地上で宣べた『神の国』を組み込んでいる(弟子のイエスの十字架の死への覚醒体験、すなわちイエスの刑死を含めた新しい神の行動全体への「信」によって、福音書における「神の国」は、歴史の終末に完成されるべき「神の国」との二重性をおびる)。

 しかし、その「基本文法」は、イエスの絶叫の「問いとしての死」を「贖罪死」として了解した時点で「説明された苦難」になり、神の救済計画の中に初めからあったものとされる。

 普遍的救済史観はイエスが「神の国」のイメ-ジのなかで「選民批判」として切断したものであった。しかし「日本では相当の知識人までが、キリスト教というものは歴史を救済史的に捉え普遍的救済を待望しているものだと固く思い込んでいる」(p.259)。この点をイエスから脱構築(非神話化)しなければならない。

 大貫氏のこの論点を教会の現場で受け止めるならば「キリスト教」は、イエスが「神の国」へ招き、応答の決断へと呼びかけたことを重視すべきなのである。

「救済史」の再生産が「キリスト教」ではないのである。そうして普遍的救済史や神義論から排斥された人たち(病人、障害者たち)のことを思い起こすべきである。このことをブッシュが遂行する「戦争」の被害者からみれば、救済史の脱構築に自覚的に取り組んでいる「キリスト教」が、クリスチャンであるか否かを問わず、戦争(権力が遂行するもの)をその被害者の立場にたって対抗的に見ていく視点へと発展するであろう。救済史観からは、この視点は出てこない。

 大貫氏は新約聖書という分野の性格上、そこまでは述べていない。しかし、宣教の現場では、そこに至る射程を含めて読まない限り、この書物がこの時期執筆された意味を受け取ったことにはならないであろう。

4-3.第三は、古代人イエスへの非神話化はその言動の全体に対して行われねばならないという大貫氏の主張は、我々に「全時的今」(大貫氏の用語)を生きることを促す。イエスのイメ-ジ・ネットワークの「爆破」の瞬間(イエスは過去、現在、未来のあらゆる時間を凝縮して内包している全時的「今」を生きた人《p.241》)が、我々の「全時的今」になるためには、従来の探求されてきた「イエスの思想と行動」は、福音書テキストに対して非神話化を急ぐ余り、イエスが古代人ゆえに抱いていた言説のイメ-ジネットワークを掴み取れなかった。それを掴み取る作業の上で、イエスの言説と行動の全体、つまり人間には神話を現実に生きることができないというイエスの破綻を含めて『標準文法』の脱構築を進めなければならない。

「正にこれ以上『不信心で、世俗的』な聖書の読み方」(p.Ⅹ)はないという仕方の提示だと大貫氏はいう。ここには、聖書は解釈すべきものではなくて、促しを求めて関わるものだという主張がある。

4-4.第四は、イエスの「神の国」イメージ・ネットワークの内容から現在の我々が最低限読み取らねばならない積極的な点を大貫氏は四点あげる。

①「神は細部に現れる」(神の国の宴会のイメージは農村の会食を表している)
②「命のかけがえのなさ」の真理性は、イエスのメッセージそのもの
③「神の無条件の許し(逆説的に「さばき」を含むものとして)」
④ イエスは神の権威に訴えてものをいわなかった。自分の責任で「しかし、私は言う」という発言をした。責任倫理を生き抜いた人。

 これらの四点を生きることは、今日の教会の宣教論にどのような視点を促すであろうか。

4-4-1.小状況。個人の生活では、責任倫理への促しを強く覚える。

4-4-2.中状況。教会の現場から。「神は細部に」を教会の日常と受け取るなら、説教と牧会での、こまやかで持続した展開。「命と向き合う」は、環境、自然、弱者、平和が課題となろう。

4-4-3.大状況。現在アメリカによる「グロ-バリゼーション」は、内容的には軍事的支配、経済的支配、情報的支配、形骸化された「民主主義」支配を意味している。これにどのように抗うかは、四項目全体の受け止めにあるだろう。

「神の名で語らない」自分の責任で、責任倫理は日本の社会、政治風土との戦いでもあろう。「全時的今」を生きる。

 救済史に対して、出会いの歴史-ゲシヒテ(邂逅史)の意味を具現化する努力が必要であろう。

 大貫氏の『イエスという経験』からの「全時的今」への促しは、このように展開されるであろう。この本の「緊迫性」を受け止めるとはそのようなことではないか。それはまた容易なことではない。しかし、キリスト教はイエスをその根源に置いている。イエスとはどんな人かを、持ち得る資料を厳密に使い吟味することでそれを明らかにすることは、逆にキリスト教の根拠を問うことであり、それはまた原理主義的なものを問うことであり、ひいては世界のありよう(戦争を含めて)への批判に風を送ることでもある。その意味では、本書は、イエス研究の研究書であると同時に、状況的書物である。

5.本書の内容を瞥見すれば以下のごとくになる。

第一章「これまでの研究」(これは本書の特徴)

① 日本人による研究として、八木誠一、荒井献、田川建三、高尾利数、滝沢武人、松永希久夫の論考の簡単な紹介と批判がある。

 大貫は八木に一番近い。イエスを当時のユダヤ社会で疎外された庶民の同伴者として生きた人としてその言葉と振る舞いに見る、歴史的に再構成の立場の荒井、田川に対しては、振る舞いの内的動機(意味)づけの欠落を指摘する。個々についての非神話化を急ぎ過ぎた言説を指摘する。高尾、滝沢については田川の踏襲と見る。松永はイエスをキリスト教標準文法からの見方から出ていないと批判する。

② 欧米の研究では、イエス伝研究、様式史、史的イエス論争、「第三の探求」が概観される。著者は、資料操作で一回しか現れないイエスの言葉の扱いを難解だと、スリップさせないで、イエスの言動の内的動機づけを関連付けるイメ-ジ・ネットワ-クを求めることで、イエスの言動を解明しようとする方法を、M.ウェ-バ-の理解社会学の方法にしたがったと明言している。

第二章 イエスの生い立ち、特に洗礼者ヨハネとの関係 (マタイ11:7-9)


第三章 イエスの覚醒体験(サタンの墜落)と「神の国」(天上の祝宴 マタイ 8:11-12、「アッバ父」なる神)の、イメ-ジ・ネットワークの「ル-トメタファー」。

第四章 イエスの発言「今この時は満ちている」「神の国」「さばき」

第五章 イエスの生活と行動。「12人の選抜」「遍歴のラディカリズム」「被差別者との会食」「癒しと悪魔祓い」「モ-セ律法と希望の倫理」「性。女性、子供」

第六章 最後の日々。エルサレム上京と神殿冒涜、最後の晩餐、最後の祈り、逮捕から裁判へ、十字架刑。

第七章 復活信仰と原始キリスト教の成立。謎が解ける解釈学的事件、原始キリスト教の「基本文法」の成立、イメ-ジ・ネットワ-クの組み替え。

第八章「全時的今」を生きる。新しい非神話化を目指して。神話を生きることの不可能性、「全時的今」の系譜、私たちの「今」。この章はこれからの著者の展開に期待すべきところであろう。

6、本書は、今まで、扱い難く解釈不明な福音書テキストを「イエスのイメ-ジ・ネットワ-ク」から解明することで、筆者は全く新しい示唆を与えられた。これは「説教者」にとってありがたいことであった。

 マルコ12:8「死人の復活」、マタイ8:11-12「神の国での祝宴」、マタイ11:5-6「死者は生き返り」、マタイ11:12「天の国を激しく襲う者たち」、ルカ10:18「天から墜落するサタン」、ルカ16:19-31「金持ちとラザロ」の文脈など(p.16)。

7.日本の教会は、本格的研究の「イエス本」を幾つも持っている。これを。宣教の視点でどう受け止めるかが、大きな課題であろう。