「母のひかり」(キリスト教保育連盟)1982年4月号 所収
(神戸教会牧師・いずみ幼稚園園長5年目、健作さん48歳)
お母さまがた、お子さまのご入園、あるいはご進級を心からお喜びいたします。
昔、ドイツの教育家フレーベルが初めて幼児の教育の場を創設したとき、どんな名前をつけたらよいかと思案したそうです。
幼児学校では何かそぐわないし、という訳で、キンダー・ガルテン、すなわち幼な子の園という名をつけたということです。
園という柔らかい語感は私たちに、花園・庭園・果樹園・菜園など、土と水が活き活きとして、さんさんと陽の光が降り注いでいる美しいところを想像させます。それと同じように、子どもたちの園も美しく活き活きとしたものであれ、という願いと祈りをフレーベルは持っていたのでしょう。
現に太陽の光にほとばしる水玉のように元気よく園の門を転げこんでくる子どもたちを見ていると、子どもの目に映る園には大人には隠されている、みずみずしさがあるのだな、と思わざるを得ません。朝、わが子を送り出すお母さまも、そんな子どもの世界を想像して「いってらっしゃい」と園に送り出してくださいませんか。
確かに、母親離れが悪くて、登園のとき毎朝泣く子はいます。しかもそれが1ヶ月も続くと親もたまりません。3ヶ月も保育室に入らないで毎日入り口の所にじっと座っていた子も知っています。しかし、焦らずに忍耐して、保育者も協力して成長を待つならば、やがてその事もその子にとってはなくてはならぬ通り道だったと振り返る時が必ず来るでしょう。
私も、4月になると自分の子どもが園に通い始めた頃のことを思い起こします。私は教会の牧師で、その教会の付属園の園長をしていましたので、保育室の2階にある牧師館が住まいでした。長女といっても一人っ子ですが、3歳になって園に入園することになりました。家庭と園とのけじめをつけるために、先生方と相談して、通園の方法を決めました。
まず家を出て(実は園の裏門)園の裏隣ののり子ちゃんの家に連れてゆき、そこからはのり子ちゃんに手を引っ張ってもらって、もう一人のお友だちと待ち合わせて、園の表の門の方へ歩いてきます。私は園長として、表門のところでみんなの登園を迎えている訳ですが、ぐるっとまわって一行三人が門の方へやってきます。
わが子はといえば、どこでそんなに変貌したのか私の想像をはるかに越えて、とてもわが子とは思えないお利口そうな顔で、いっぱしの園児よろしく近づいてきて、ちらっと私に見知らぬ人に対するが如き一瞥を加えて、とっととお友だちと園の中に吸い込まれていきました。
私はこの時、子どもには子どもの世界があるのだ、ということを身に染みて知らされました。その世界には、たとえ園長という立場にあっても入り込めないし、まして親ということでは知る由もない子ども同士だけの関係が形作られているのだということを実感いたしました。
園が終わると、来た時とは逆の順序で家に帰ってきます。裏門から階段を上がって我が家の玄関へ入るなり、園での緊張をどうやってほぐしたらよいのかが分からないくらいに母親に当たり散らします。
私はよくこの様子を見ていて「帰宅性心身緊張感弛緩急性不機嫌症」などと言ったものでした。よそのお宅ではそんなにではないにしても、多少は同じようなことを繰り返しているのかなと想像しながら、こうやって子どもは自立していくのだなと感じました。
この頃は子どもさんの入園の理由を「お友だちができるように」と言って、一昔前のように知能才能を伸ばす学習に夢をかけてこられる方が少なくなりました。これは高度経済成長が頭打ちになって、社会の要求する人間像が少し変わってきたせいかもしれません。
健康でマチュアな(成熟した)人間が最近は求められています。一時代前はとにかく勉強勉強といって親が過保護にしすぎました。その結果、今青年期や成人期に入って自立を欠いた人が多くいます。さらにその「甘え」の総決算をさらえるように自立はおろか、いろいろな精神的ゆがみが病的に出てしまっている人を多く見かけます。
過保護に育てた親自身は、きっと古い学歴社会の中で苦労し、子どもにだけは苦労させたくないという気持ちと、自分の可能性を学歴社会で阻まれた夢を子どもに託したのかもしれません。ある意味では子どもは被害者でした。親のゆがみが子どもに現れたと言ってもいいのかもしれません。その反省という訳でもないでしょうが「お友だちと遊べる子を」というごく当たり前の願いを持って園に来られる方たちが増えたのかもしれません。しかし逆に考えれば、子どもが子どもとして当たり前に持っている友だちを作り遊ぶ力が、環境のせいもあり、社会全体に落ちていることの危機的な現れ方をその声に聴き取ることもできます。
共に、子どもの園の回復に励もうではありませんか。
「かにむかし」のお話から(1989 保育)