イエスはよみがえった(1982 神戸教會々報08)

イエスはよみがえった

神戸教會々報 No.99 所収、1982.4.11

(健作さん48歳)

驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。 マルコ 16:6


 京都、同志社の建学の父祖の一人であるジェローム・ディーン・デイヴィス(Jerome Dean Davis)は、その生涯を閉じる三日前、女婿オールヅ夫妻が「何か遺言ありや」と尋ねたのに対し、「”My Life is my message”(わが生涯はわが遺言なり)」と答えたという。これはあまりにも有名な話である。「同志社90年小史」は「語り得て至言というべきであろう」と記している。

 デイヴィスとはどんな人か、を知ろうとする者は彼の生涯をはじめから辿らねばならない。一人の人の歴史に残した軌跡とはそれだけの重みを持つ。まして、彼が歴史にとどめた出来事を知ろうとするならば、その神の啓示、神の福音を出来事に即してたどることが、筋道というべきである。



 マルコによる福音書の著者は、その事に忠実であろうとした。要するに福音とはこういうものだ、というまとめ方を避けてイエスの説教も活動も知り得た全部を書けるだけ書いて、その全体が「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)だと提示する。これは、恐らく当時すでに福音とはこれこれだ、と定式化し抽象化し概念化していったエルサレムを中心とした教会に対して、ガリラヤの民衆の間で素朴に伝えられたイエスについての様々な伝承を意図的に集めることでなされたものであろうと思われる。そうして、16章の最後まで書き綴ってきて、その終章で、これで「イエス・キリストの福音」を示し得たとは言っていない。むしろ逆に、いささかでも出来上がってしまったイエスに対する読者なりの像を破って、あの「はじめ」からを、もう一度たどるようにと促すようにして福音書を終る(16:9-19は付加で本来のマルコは16:8で終る)。

「あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない……イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」(16:6-7)。

 それにしても、このメッセージを受けとったのは婦人たちであった。

「あなたこそキリストです」(8:29)と意志的に信仰告白をし、枕することなきイエスと旅を共にし、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても」(14:31)従っていく決意を表明していた男の弟子たちは、はるか以前に舞台から去ってしまっている。

「今から弟子たちとペテロの所へ行ってこう伝えなさい」(16:7)と、メッセージは婦人たちを通して伝えられた。「求道」は意志的決断的生活であると言えるが、そこには張りつめた生のみが前面に出る。十字架へと向かう生はそのような面が強い。

 しかし、挫折せる者をも愛にあってつなぎ、信と不信、死と生を同時に包む「復活」のメッセージは、「求道」に対して「信仰」を開示している。福音書をもう一度はじめに帰ってイエスの生をたどることをも意味している。それは一見、重いと感じる日々を繰りかえしたどることではある。しかし、神の支配、神の愛のうちにゆだねつつ、再び立って(復活を意味するアナスタシスは再び立つの語意)みると「求道」の時に持っていた重さが不思議とゆるめられている思いがする。

 自己の業績、自己実現が破れ去っても、まだ生きていてよい、何かしてよいというゆるめを覚える。

「彼は甦らされた」(16:6)。ここから始まる生を生きていきたい。

旧約聖書と私たちの教会(1982 神戸教會々報09)