旧約聖書と私たちの教会(1982 神戸教會々報09)

旧約聖書と私たちの教会

神戸教會々報 No.100 所収、1982.10.17

(健作さん49歳)

「夏は去りて、秋は来ぬと……」
 昔、教会の秋には振起日というのがあって、こんな讃美歌を大声で歌い、夏の学びを秋の伝道活動へと展開して、季節のけじめをつけたものです。それにしても今年は天候不順で夏から秋への節目をあまり感じませんでした。せめて夏期特別集会で「旧約聖書と私たちの教会」をテーマに学んだことを、強烈な「夏」として、秋の教会の行動の主旋律にしようではありませんか。

 この一文は、木田献一教授(旧約学専攻・立教大教授、教団百人町教会牧師)を迎えて行った夏の集会の全体の様子を伝えることが目的です。しかし考えてみると、この集会での学びに盛られている「事柄」の全貌は驚くほど大きなものです。つまり、旧約聖書を残した民族が何千年もかかって刻んだ「主なる神」との関わりの巨大な歴史を、私たちの教会が、その歩みにおいて生きた関係にまでしてゆこうとする企てなのですから。筆が渋滞します。何から書きはじめて、何を書いたらよいのかとまどいます。そこで、よい方法か否かは別として、この集会(主題講演)の中心点で聖書の「ことば」を記します。そして、その「ことば」が今私たちの信仰の「出来事」となることへと思いと祈りを注いでいくことにします。

 一つは、出エジプト19:5以下です。
「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの制約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。あなたがたは……聖なる民となるであろう」。

 エジプトで奴隷であったイスラエル民族が弱肉強食のピラミッド型権力構造の人間図式から「主なる神」の強いみ手によって導き出され、愛と自由に基づく新しい共同体へと向うその出発点で語られたことばです。木田先生はそれを人類の歴史の「苗床における歴史」だと語られました。

 もう一つは、ダニエル書7:22のことばです。
「この角は聖徒と戦って、彼らに勝ったが、ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判を行った。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた」。

 これは世界帝国(アッシリヤ、バビロニヤ、マケドニヤ)の支配を次々と受けた旧約の民が、その最後に、セレウコス王朝の10番目の王アンティオコス・エピファネス(この角)の迫害と大虐殺に苦しんだ時のことを画いています。この時、神(日の老いたる者)の法廷が開かれ、審判が行われ、聖徒たちは国(神の国)を受け継ぐ者とされるという、ぎりぎりの終末的信仰が表白されています。

 この二つは旧約の初めと終りで、特急電車のように途中駅をとばしていますが、この神の選びへの信仰が歴史の中で織りなす多彩さが「旧約」そのものであります。集会の案内文に私は「日本の教会は『旧約』に対する学びが薄いといわれています。これは言い替えれば、『歴史』との関わりで信仰を考えていくことが少なかったとも言えます」と書きました。言葉をかえれば日本の教会の信仰理解が、一方に於て主観(敬虔的・実存的・文化的)に傾き過ぎ、他方において客観(教義的・信条的)から自由でなかったとも言えるでしょうか。そこでは、重い人間の歴史の具体性が捨象されます。出エジプトやダニエルが味わった歴史の出来事を、今日教会が避けたり、目をそむけたりしないで歩むところに、「旧約」を学ぶ意味の一つをつなげてまいりたいと思います。

星とクリスマス(1982 神戸教會々報10)