しかし、お言葉ですから《ルカ 5:1-11》(1982 週報・説教要旨)

1982年10月10日、聖霊降臨節第20主日、神学校日
(柏木哲夫氏 秋期伝道礼拝の前週)
説教要旨は翌週の週報に掲載
13日(水)安中教会(群馬)伝道集会の応援

(兵庫教区総会議長、神戸教会牧師5年目、健作さん49歳)

ルカ 5:1-11、説教題「しかし、お言葉ですから」岩井健作


 本日の聖書日課の後半に「恐れることはない、今から」という言葉がある。

 この言葉の前では、私たちが如何に「今からでは遅いのだ」という焦りの心で生きているかが照らし出される。

 もし、私たちが「完全な人生」「理想の状態」から自分を見たならば、常に「今からでは」という気持ちに捕らわれる。

 可能性と前途に夢を託している青年期のエリートにおいてさえ、そこから自由であり得ると誰が断言できようか。

 たとえ頑張り屋であっても、壮年から老年では、その陰は覆うべくもない。

 神学者カール•バルトは、ルカ5章1節〜11節の説教で、それを「死の時の陰」と言って、「あらゆる成功の数々をふりかえりみることが許されている時でも、実は何も得ていない、すべては無駄なのだということが容赦なく、はっきりと現れる瞬間が人生にはあるものである」と言っている。


 ”さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。これを見てシモン•ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。シモンの仲間であったゼべダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。”(ルカによる福音書 5:1-11、口語訳)

 漁師がその陰を色濃く感じるとしたら、それは獲物のなかった朝であろう。

 2節に「漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた」とある。夜通し漁をしても何も獲れなかったのである。

 しかし、そこにイエスは「沖へこぎ出し、網をおろし、漁をしてみなさい」と言われる。

 一方で「夜通し働いたのに」との気持ちを持ちつつ、イエスの言葉に動かされて、漁を始める。

 人は言葉を信じるという性向を持っているのだろうか。

 そもそも言葉でつながることが人間の人間たる所以であるとするならば、ペテロはほんのちょっとだけイエスを信頼したことになる。

 それは、近寄って、言葉かける側(神)へのごくわずかな応答に過ぎない。

 でもそれは驚くべき結果で応えられている。

 イエスの語りかけは、弟子たちの「今からやっても」という完全主義を圧倒的な力で超えていく。

 ペテロは、自分の内側にある「今からやっても」という「罪深さ」に気が付き、思わず「離れてください」と叫ぶ。

 恵みが経験されて初めて認識されるのが現実的な「罪」である。

 しかし、私たちはここで、聖書の物語の目的が人に罪を認識させることではなく、そこから先のところにあるということに注目したい。

 ペテロは「人間をとる漁師になるのだ」と言われた。

 ユーモラスな表現の中に、人の心に繋がりを作り、その心を神に繋げるような働きを秘めた人間の姿がある。

 「しかし、お言葉ですから」とイエスの言葉に応えた者は、またきっと人の心にふれる言葉を語り得る人間へと変えられていくであろう。

(1982年10月10日 説教要旨 岩井健作)


1982年 説教

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