1982年3月21日 神戸教会礼拝
週報掲載 説教要旨
(神戸教会牧師4年、健作さん48歳)
マタイ 17:1-8
「山上の変貌」(この箇所の他マルコ 9:2-8、ルカ 9:28-36)から学びたい。この物語はマタイ16章の「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」との記述に続いている。「変貌」の光り輝きが神の栄光を表しているとすれば、十字架を負うところにこそ神の栄光の輝きがあるということが、この物語のテーマである。
さて、弟子たちにはこのことが分かってはいなかった。ペテロ、ヤコブ、ヨハネと三人揃っての登場は、福音書ではイエスがゲッセマネの園で「悲しみのあまり死ぬほど」(26:38)の祈りをささげる場面を想像させる。そこでも彼らはこぞって眠っていた。本日の箇所では、彼ら三人はこぞってイエスの光り輝く栄光の姿を見ている。そしてそれがモーセとエリヤ(旧約聖書の律法と預言を示す)とに証しされていることも知られている。けれども、彼らはその栄光を「小屋」を建てて固定化しようとしたという。小屋は旧約の歴史記事によれば「会見の幕屋」(出エジプト 33:7)を意味し、神の顕現の場、礼拝の場を意味する。弟子たちが神の栄光に出会い、その場をいつまでも確保しようとする気持ちは大切だと思う。しかし、そこでの誤りは「神の栄光」の固定化、観念化ではないだろうか。私たちの信仰生活に引き寄せて言えば、礼拝(神との出会いの場)においてもう分かっている、という「福音」の自分への取り込みを起こしていることはないか。
5節。「雲の中から声がした」。神の顕現は「声」という他者性をもって響く。「これに聞け」。十字架につけられたイエスに聞け。十字架以外に神の栄光はない。ここでテーマは先の16章につながる。
だが、自分の十字架とは何か、との問いに改めてぶつかる。主観的に自分の苦しみを負うということはある。しかしこの世の悪、そしてさらにその根源でもある原罪ともいうべきものまでの関わりを思うと、途方もなく重く負い切れない。「非常に恐れ、顔を地に伏せた」(6節)の言葉が実感として響く。しかし、十字架を負う道はすでにイエスによって世につけられている。それゆえに「イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて」(7節)そして言われる。「起きよ、恐れるな」と。そこには、十字架を負うことは神と出会う道である、いや神が人と出会う道であればこそ恐れることはないと。神の近さは一面私たちを動揺させる。だが、恐れまい。
(1982年3月21日 神戸教会主日礼拝
説教要旨 岩井健作)

