1983年11月6日、降誕前第7主日、礼拝後:納骨者記念式
舞子墓園 神戸教会納骨堂、墓園礼拝(62名参加)
説教要旨は翌週の週報に掲載
《11月10日、K.S姉葬儀司式》
東京出張:11月10日〜11日 教団常議員会
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
詩篇 119:105、説教題「み言葉はわが足のともしび」岩井健作
”あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。”(詩篇 119:105、口語訳)
この一年の間に私たちの教会では5人の方々が主のみ許に召された。
みな信仰の長い道程を歩まれた方たちである。
特に心に残るのは、それぞれがその生涯と深く結びついた自分の聖句を残されていることだ。
「忍耐は練達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ 5:4、口語訳)
「われはわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり。」(詩篇 51:3、文語訳)
「泣く者と共に泣き」(ローマ 12:15、口語訳)
これらの聖句を聞くと、お一人おひとりの振る舞いが目に浮かぶ。
聖書の言葉が力を持つことと結びついて、その生涯が偲ばれるということは、大変福音的なことだと思う。
何故ならキリスト教は「ことばの宗教」であるからだ。
その意味は、祭儀や神秘的心情の宗教ではないということである。
教会の集会では、礼拝を基本として、必ず聖書が読まれ、説教がなされる。
祈りも讃美歌も言葉であるし、洗礼や聖餐などの典礼も水やパンやブドウ酒が恵みのしるしとして用いられるが、言葉を伴っている。
言葉の宗教で大事なことは、言葉が力を持ち、活きて働いていることである。
ヘブル語の”ダーバール”(言葉)は「後ろから前に押しやる」という意味であって、言葉即力、また行為である。
客観的知ではない。
まして日常生活でも言葉のあやなどというように、口先や頭だけで心がこもらず、力のない言葉や「言うてみるだけ」の人の言葉は死んでいると言えよう。
しかし、実際には言葉と人格・生涯とは分裂しやすい。
特に足元の問題ではそうだ。
「脚下照顧」などというが、顧みただけで分裂がなくなるわけではない。
その暗い部分、自分で始末のつかないところ、すなわち聖書が「罪」と教えているところを照らすのが「み言葉だ」と詩篇の詩人は言う。
”あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。”(詩篇 119:105、口語訳)
ヨハネ福音書では「ことばが肉体となり」まことの光として世の暗い部分を照らすという。
そこでは「ことば」とは「キリスト」を意味している。
”そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。”(ヨハネによる福音書 1:14、口語訳)
聖書の言葉がひとりの人の生涯にくっついてくるということは、聖句をただ座右の銘にして置くというようなことではなく、その《聖句の中に宿るキリストを信じる》ということなくしてはない。
「言葉」がその人の暗い部分を照らし、「罪」を贖い、力を与える。
「み言葉がわが足のともしび」とは、頭に浮かぶ理想や理念ではなく、日々の生活を導き支える福音の力であるということである。
自分の力では解決できない「罪」を贖い救う力としてはたらきかけ、後ろから前へと押し出すゆえに「言葉」なのである。
召された方たちもそのように聖書の言葉に依り頼んだに違いない。
召された人たちが「ことばの宗教」に生きた人たちであったことを、この記念式に深く覚えたい。
そしてそのように私共も生きていきたい。
(1983年11月6日、舞子墓園 納骨者記念式、説教要旨 岩井健作)