マルコのメッセージを捉えるために (1983) 

1983.11.2 秋の教会一泊研修
主題:聖書を読む − マルコによる福音書を通して

『土の器に盛られたいのちの言葉 − 聖書をどう読むか − 神戸教会夏期特別集会記録』所収 (2003.3.1発行、日本基督教団 神戸教会 伝道委員会 作業・編集)


(サイト追記)全文を収録する際、サイトでは何箇所か手を加えました。


はじめに
 過去5年間に自分がマルコによる福音書について説教し、週報に印刷したものを集めてみましたら10回になります。マルコについて余り系統的に、きちんと講解説教というものをしておりませんし、そういう意味ではマルコに正面から、というよりも福音書に本気で取り組んでこなかったなという反省を持っております。「福音書を学ぶ」ということを夏期集会でもやりましたので、これを契機にきちんとマルコなり、マタイ、ルカなりの福音書に講解ということで取り組んでいかなければいけないという気がしておりまして、自分の取り組みの不十分さというものを感じております。

講解説教に取り組む姿勢
 講解説教として割合我々の身近なところにあるものとして鈴木正久氏の「マルコによる福音書と講解説教」というのが「信徒の友」に連載されておりますし、それから少し固いものですが日本キリスト教会の渡辺信夫氏が2冊に亘ってマルコによる福音書の講解説教をしています。また石島三郎氏の著作集の中にもそれがあります。このようにマルコによる福音書の説教というものは日本の教会ではかなり取り組まれております。それから聖書の研究としては、マルコ福音書では日本では田川建三氏が本格的に取り組まれた『原始キリスト教史の一断面』という大部の本があります。これがマルコ福音書の福音書文学の成立について書かれていると言うことが出来ますし、また翻訳についても田川氏の翻訳などがあります。この様にかなり身近なところでマルコについての本格的な取り組みと研究が教会の側にも、研究者の側にもあるわけで、そういうものをもう一度学びつつ、取り組まねばならないという思いを持っているわけです。そういう意味で今度の集会では、むしろ私自身の反省というようなことから始めなければならないと思っております。

聖書を読む教会全体の力
 今回マルコを取り上げましたのは、83年度の神戸教会の宣教方針の中で、教会の宣教の力の大事な要素の一つは「聖書を読む教会全体の力」だろうと思っているからです。先般奥村龍三兄の追悼礼拝の時にも、申し上げたのですが、その教会の説教というものは、語る側だけではなく聴く側の聴く力との交互関係で聴くことにより牧師が育つというようなことを奥村さんは言っておられたわけですが、そういう意味では、正直に見ましてー私は勿論自分自身に説教の力が無いことは判っているわけですがー神戸教会での講解説教というのは大変難しいと思っています。例えば「本日のテキストは云々」という言い方で始めると、何か離れて行く、何か取っつきやすい話から始めるとか、何かご馳走を作って出して行かないと礼拝が持たない感じがしております。そうではなくて、握り飯でもいい、しっかりと握ってちゃんと焼き込んで味付けした、米の味でよいから、そういう形の説教が出来ぬだろうか、そこまで講壇というものを持ち込んで行かなければならないのではないかと思います。

 私は自分が牧師という仕事に就いてしまってから、他の教会の礼拝に出る、つまり一聴衆として礼拝に出ることは非常に少なくなってしまいましたので、教会で休暇をいただいたときには極力選んだ − といっても自分に関係のある教会の中からですが – 教会の講壇の下で説教を聴くという訓練を受けたいと思っております。岩国教会から神戸教会へ来るとき2回休暇を頂いて、私は北白川教会に出席しました。この教会は奥田茂孝牧師が説教をされていましたが、そこで先ず感心したのは、そこは畳の部屋ですが、時間前に前からびしーっと詰まってしまっていまして、私が定刻に参りましたときには後ろしか空いていませんでした。奥田先生は他の集会は余りなさらずに説教にだけ打ち込んで居られる方だとお伺いしましたが、その頃もう75-76歳でしたが、よく準備された説教をされていました。牧師が雑用に疲れて説教をやっとこさやっているという自分の姿に恥じ入った思いがして、神戸に行ったら頑張ろうと思いを新たに致しました。それから5年経ってみまして、何というか雑多な牧会の用事に打ちひしがれて日曜日の講壇に立っている自分の姿を反省しています。奥田先生はあの時イザヤ書の42章の説教でしたが、聴衆席にいて聴く側が実によく聖書を読み込んでいるというか、本当に言葉が一つ一つ通ってくる、というような全体の雰囲気があり、非常に感心いたしました。それから、一昨年もお話ししましたが、信州のホーリネス関係の小さな教会では、信徒の老人の方が聖書の話をされましたが、15-16人の年老いた農民の方が聴き入っている姿に大変感動いたしました。

また今回は札幌にある独立教会と言いまして、内村鑑三をはじめ北大を中心とするクラーク博士に感化を受けた人たちが創った教会ですが、戦前までは牧師を置いていたのですが、戦後は牧師を置かないで信徒が自由に責任を持つ講壇という形でやっているところです。そこの礼拝に出てみてびっくりしましたが、お年寄りもかなりおられるのですが、みんな分厚い聖書を持って居られるのです。どの聖書も書き込みでボロボロになっており、そしてズラッと並んで信徒の証しの説教を聴いているのです。そういう中に入りますと、聖書をよく読み込んでいるというか、聴き込んでいるというか、そういう教会だという感じがしました。そういう教会の一つの力といいますか、底力と祈りがあって、教会から出ている、例えばバングラデシュで医療活動をしている宮崎亨先生のような活動がなされているのだと思います。

聖書を読む力を養う工夫
 そういうことで、聖書を読むことで教会の底力をどれだけ付けていくことが出来るかということは、内面的なことですが、教会の一つのバロメーターであると言えます。もちろん教会の数字というのは、どれだけ人数が集まっているかとか、どれだけ財政力があるかなども一つのバロメーターではあります。そういうことから見ますと、都心の教会で、みんなが一堂に集まって来るというのも難しいところで、そういう中で聖書を読み込んで行くということの重要性を思うわけです。それが宣教方針の中で謳われていることの一つなので、各人の努力や工夫とか、集会での取り上げ方とか、説教と生活の相関関係とか、そういう教会暦的な工夫が必要になってくると思います。教会暦というのは一つの工夫だと思っているのですが、2年間連続して見てみますと、聖書の非常に重要な箇所というのは大体取り上げられているのです。それについてきちんとした講解をしていくということで聖書に親しんで行くことが出来るだろうと思うわけです。講解説教で一つのところをずーっとやると、逆に聖書を読まなくなるという先生もいますし、むしろ教会暦のようなテキスト選択に従ってやっていけば、教会員のみんながそこのところを読むようになるという経験を持つ先生も居られます。また、そういう散発的な読み方では教会としての力が付かない、やっぱり講解というか、一書について打ち込んでやって行くという方法を採らねばならないというふうに、いろいろあるとしても様々な工夫をして教会全体の聖書の読みを深くするということが私の祈りであります。そのことの第一の責任というのは自分自身で負わなければならないという意味で大変学びの少ない毎日を過ごしていると反省をしています。今日もちゃんとマルコを読んでこられた方があり、大変心打たれ、私も心して聖書を読んでいかねばならないと思いました。今日の集会はそういう意味で私自身のための集会でもあろうと思っています。

今回マルコ福音書を取り上げた理由
 前置きが長くなってしまいましたが、福音書を取り上げようということは、昨年旧約を取り上げたことと関わりがありますが、旧約、新約全体を通してのメッセージがあります。山本七平氏も言っていますが、キリスト教は二天を仰がずと言います。唯一神信仰という形では日本に受け入れられなかったのです。唯一の神との契約、日本ではそういう唯一の神を拝するという風な人格的な関わりを持つということは、社会の構造そのものがなかなか難しいわけで、そういうことに対してもキリスト教の聖書が持っている思想的な力というものが人格的な関係を挑んでいる、そういう風な切り込み方をしていることに大変意味があると思います。また、罪の自覚とか、意識とか、神との関わりに於いて罪を考えていくという意味では、日本の精神風土に切り込んで行く非常に大きな思想性を持っていると思います。そういう全体の持っているメッセージをしっかりとわきまえた中で、個々の文章の持っている大切な役割というものを丁寧に読んでいかねばならぬと思っています。
 新約聖書全体の中で書簡の方はどちらかと言えば直接教会の問題に対するメッセージですから、読みやすいのです。私も自分の説教のテキストを調べてみて、私が新約の専攻というだけではないのですが、やはり書簡が多いのです。書簡というのはすぐに教会の現場に教訓的につながるものですから。そういう意味で福音書文学というものを教会が読む力をつけねばいけないということを反省させられます。

福音書をどう読むか
 福音書とは一体何でしょうか。福音書は独特な文学類型であり、単なる伝記文学とは異質であり、一つのメッセージを伝記という文学に似た形で訴えたものでしょうか(大きく言えば伝記文学なのでしょうが)。荒井献先生によりますと、旧約の預言者の形式に則った伝記という、唯一の神に遣わされた人間として描いている、そういう歴史、伝記の書き方、そういう性格を受け継いでいる文学だと思います。最近は歴史批評研究の成果で福音書というものが個々の伝承の様式と動機を持っているということが分かってきました。例えば、一つの物語があるとすれば、その物語を生み出した生活があるのだ、という個々の伝承が持っている形とかタイプを細かく研究(様式史研究)をしている方がおられます。このことは、この夏話された橋本先生も指摘しておられます。そういう個々の伝承というものを「マルコによる福音書」の場合は、福音書の記者が編集にあたり、一つの意図を持って繋いでいったと言われています。どういう意図かと言うと、マルコによる福音書が語りかけている信仰の共同体というものがあって、これは恐らくエルサレムに比べて辺境のガリラヤで、迫害の下にあって、終末におけるキリストのご来臨を待望していたでしょう。そして、宣教を使命として存立し、しかもその中で弟子たちが権威化をしてくる一方、共同体の中には財産の問題、結婚の問題などで世俗化が起こってきている。そういう中でもう一度イエスに従う、十字架を背負うと言うことは一体何なのか、ということを弟子たちに対する批判を踏まえながら、信仰共同体に語っていった、というマルコ自身の生活を生み出した一つの教会があるのだろうと思います。そういうものをしっかりと捉えて、聖書全体のメッセージというのでしょうか、聖書の正典性といいますか、聖書は教会の聴くべき「神の言葉」であるというメッセージとの関連で読んで行く、そういう捉え方が聖書を読んで行く上で大事ではないかと思います。

マルコ福音書の主要点
 そういう意味でマルコを読む上で主要なポイントというものが、我々が何度も通読する間に判ってくるわけです。ペテロのキリスト告白とそれをイエスが叱責するという8章の記事がありますが、そこから十字架の受難物語へと傾斜していく、そして神の子イエス・キリストによる福音がいろいろな現象をつなぎ合わせて述べられていく、そういった方向性、その中に示されるイエスの弟子たる者のイエスに対する無理解。これは説教の中にもいくつか出てきますけれども、マルコの10章とか14章のゲッセマネのところとか、いろいろあります。そしてこういう中に、民衆がいろいろ保存していた、いわゆる治癒物語。イエスに出会うことによって当時かぶせられていた病気の意味づけというものが打ち破られて病人が解放されていくというような物語です。これはおそらく民衆の間にたくさんあったと思います。それをたくさん集め、それをつなぎ併せて民衆の視点といったものをマルコが組み込んでいったと思います。さらに奇跡物語の中で、憐れみの動機というのでしょうか、イエスが病人を憐れんでいくという「スプランクニゾマイ」(動詞)という言葉がありますが、マタイやルカでは既に名詞化されてしまっているのです。「憐れみ」は大切だということになってしまっています。しかし、マルコでは非常に具体的にハンセン病者や精神病者等の当時の宗教家が顧みなかった者に対する「憐れむ」という行動(マルコ独特の言葉の使い方をしていますが)とでも言うべきものがあります。イエスがこの社会の中で疎外されている、また病を持っている者の中に、一緒に生きて十字架を負っている、というそのことの一つ一つの出来事をもう一度省みなければならない、これがマルコを読む主要点かなと思います。

マルコの言う「イエス・キリストの福音」とは
 「イエスはよみがえった」という私の説教の内容がお手元にあると思いますが、その中に「まして、神が歴史にとどめた出来事を知ろうとするならば、その神の啓示、神の福音を出来事に即して遡ることが道筋と言うべきである。マルコによる福音書の著者はそのことに忠実であろうとした。要するに福音とはこういうものだ、という纏め方を避けて、イエスの説教も活動も知り得た全部を書けるだけ書いて、その全体が『神の子イエス・キリストの福音』(1:1)だと提示する」と書きました。

マルコによる福音書1章1節の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」の「はじめ」という言葉は一体どういう意味を持っているのか、推測はたくさんありますが、この言葉から福音書が始まります。最後の16章までずーっとこれが福音ですよと書いてあって、16章7節で、イエスの墓の中にいた若者が女性たちに次のメッセージを託したとマルコは書いています(女性たちは恐ろしくて誰にも何も言わなかったとマルコは結びます)。

今から弟子達とペテロのところに行って、こう伝えなさい。「イエスはあなた方よりも先にガリラヤへ行かれる、かねてあなた方に言われた通り、そこでお会いできるであろう」と。

マルコ福音書16章7節

 荒井献氏が見事に指摘されているように、イエスが復活されてガリラヤでお会いできるということ、つまりガリラヤのイエスの生きられた日常性の中にイエスの命が含まれているということで、もう一度「はじめ」に帰るのです。だから福音書は何かと聞かれたら、はじめから終わりまで全部たどって、終わりになり、また「はじめ」に戻るのです。これは福音書に書かれている一つ一つの出来事というのは飛ばすことの出来ない固有の重さを持っているということでしょう。このあたりのことは、月報にある説教「イエスはよみがえった」にも書きました。

 これは恐らく当時すでに福音とはこれこれだと定式化し、抽象化し、概念化していった、エルサレムを中心とした教会に対して、ガリラヤの民衆の間で素朴に伝えられたイエスの様々な伝承を意図的に集めたことでなされたものであろうと思われます。そして16章の最後まで書き綴ってきて、その終章で、これで「イエス・キリストの福音」を示し得たとは言っていない。むしろ逆に、いささかでも出来上がってしまったイエスに対する読者なりの像を破って、あの「はじめ」からを、もう一度たどるように促すようにして福音書を終わる。

今日の状況の中で福音書を学ぶことの意味
 そろそろ結論に参りたいと思います。私たちがキリスト教信仰で洗礼を受ける場合、やっぱり一番強調されるのは「罪の赦し」義認信仰のことでしょう。この点は恵みとして受け入れるというパウロの力点をはっきりさせておかないと、洗礼を受けるということが何らかの人間的な業になってしまって、恵みを受けることになりませんから、そういう意味で「古き我に死んで、新しき我に生きる」というパウロの言葉は大切だと思います。これは信仰の義認と言われていることですが、あの福音の出来事の内容というものを、ただ義認といわれて教義にまとめられ要約された「十字架の罪の贖いとそこからの命の復活」という言葉だけで理解すると、やっぱりそこに観念化とか、抽象化とかいうことが起こってくると思います。そういうことに対して福音書は全部辿れと言っているのです。これがマルコによる福音書の福音の語り方の一つの独自性です。こういう文学類型なんだ、こういう形でしか福音は語れないんだ、ということを言っているのです。

 今日、私たちが日本のプロテスタント教会の教団の問題と聖書の学び方などを考えてみますと、そこで義とされた信仰による義認、確かに赦されるのですが、具体的にどういうことで赦されるのか、赦された人間は本当に神のもとで生き生きとした生活に回復していくのか、その間のプロセスがあると思います。そのプロセスを落としてしまって、つまりそういうプロセスが社会の中に起こってくる問題を落としてしまって、教会の中だけで義認のことが語られているというところの抽象化に対して、今日本キリスト教団の中では「そうではなくて、今世の痛みを我々が生きていくことの中に、キリストと共に生かされるということがあるのではないか」という人と、「いやそれは行為義認主義だ」という人があります。今、教団の中では「行為義認なのか」「本当に信仰というのは歴史を含んでいくのか」という論争が1969年以来、繰り返されてきています。私は今日の教会における問題との出会いというか、関連の中で、「福音とは歴史への神の関わりの出来事そのものにある」ことを再理解するという意味で福音書を学ぶことが大事なのではないかと思います。大変抽象的な言い方ですが、福音書の一つ一つの言葉を(伝承があって、伝承というものを通してそれが生まれてきたという、解釈の方法をとらねばなりませんが)丁寧に辿っていくことの中で、我々の今日の生活と福音書を読むということの関係がわかってくるのではないかと思います。