十人の乙女の譬え(2008 聖書の集い)

2008.5.28 「福音書の中のイエスの譬え話」第17回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

マタイ福音書 25章1-13節 「十人のおとめ」のたとえ 新共同訳

 そこで天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。……

(予告)このイエスの譬は、有名なお話です。このお話を元に作られた讚美歌174番(21−230)のメロディーはバッハのカンタータ140番「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」のコラール(合唱)に出てきて、世界中で親しまれています。聖書は文化の源でもあります。

1.このお話を元に作られた讚美歌174(21−230)のメロディーはバッハのカンタータ140番の『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』のコラール(合唱)に出てきて、世界中で親しまれています。

2.マタイの特殊資料。現在のテキストは、初代の教会が「キリストの再臨」に備えるための寓意的解釈を施した話になっている。1節、13節はマタイの加筆。寓意は「天の花婿」に「キリストの再来」を見る。十人の乙女は待ち望んでいる教会である。花婿の到来の遅延は世の終末の遅れ、キリストの再来の延期である。教会は備えをせよ。

「皆眠気がさして眠り込んでしまった」は13節の「目を覚ましていなさい」とは合わない。遅延してもよいように油を用意しておくように(中間時の倫理−荒井)。花婿の突然の到来は再来の思いがけない実現であり、愚かなおとめたちを厳然と拒絶したことは最後の審判である。当時の教会は世の終わりが今にも来るという切迫した終末論の信仰から、当分は終末が来ないから備えをしておかなくてはならないという信仰に重点が移ってきていた。しかし、世の終わりはいつ来るか分からない、危機への緊張の意識が大切というお話。

3.イエスが話した「時」。多分ルカ13章22節から33節が暗示。イエスの宣教にはドンデン返しが起きる。人々に危機意識をもたらした。例えば、神の国の宴席には、予定者が与かれない。それらの人が断っているうちに、道端の貧しい人が神の宴席に与かっているなど。イスラエルの、特に指導者の人々は救いから漏れてしまう危機が迫っている。

「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入るのに、自分は外に投げだされることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」(ルカ13:28)。

 客の幾人かが備えが悪かったため遅刻して村の婚礼に与かれなかったという実際の話。一つの出来事は、危機の性格を常に持っている。細心の対処の自覚が必要だ。「閉められた戸はすぐには開かない」(ユダヤの諺)。「しまった」では済まされない。危機への備えを怠ってはならない。

4.時間の経過(日常、クロノス)と突如切り込む危機(非日常、チャンス、カイロス)とに同時に心を向けて生きること。

 日常は学び、受容、備え、経過の時、非日常は決断、行動、展開の時、イエスに従う生はこの二つの軸で成り立つ。

 地震に出会った経験。