神の目、親の目、子供の目(2008 礼拝説教・マタイ)

2008.6.1、明治学院教会(116)聖霊降臨節 ④

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)

マタイ 6:22-23

”「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」”(マタイによる福音書 6:22-23、新共同訳)

選句 ”目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい”(マタイ 6:23)

1.「目が澄んでいれば」は、イエスの「山上の説教」(マタイ5章〜7章)の中にある。

「山上の説教」の根底は「天の父」の我々への徹底した”信”(真実・愛・恵)である。

 例えば「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ 5:45)という言葉が、底知れない”信”の深さ、確かさを表している。

2.「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」という言葉は、その「天の父」への応答が「目」で表現されている。

「澄んでいる」のギリシャ語”ハプルース”の意味は「単純な・純粋な」、その根本は「単一」そして「全体」を意味する。

 特にマタイは倫理的意味を強調し、無条件的な「あれか、これか」を表し、目の話を「神と富とに兼ね仕えることはできない」(24節)との話に繋げている。

 パウロは名詞でこの語(”ハプルース”)を使い、献金に関して三度用い(Ⅱコリント 9:13他)、「惜しみなく」と訳されている。

3.「天の父」への全き信頼を、子供の存在で表したのは、イエスが幼子を招かれたという話(マタイ18:3以降)である。

”そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。”(マタイ 18:3、新共同訳)

「目が澄んで」という言葉は、幼子の目を連想する。


 画家・岩崎ちひろさんは、3歳と4歳の子の目を描き分けた。

 母親が後ろ姿で髪だけ描かれ、子供が母の肩越しにこちらを向いて赤いカーネーションを持っている絵がある。


 母の目は描かれていない。子供の目が母の愛情すべてを語っている。


4.親の目はそれ自身では存在しない。子供の目に引き出されて、親の目がある。

 幼稚園園長の経験で、子供から親の目について教えられた。

 ① 子と向かい合った目(二人称)
 ② 親の責任の目。状況全体を見る目。
 ③ 親の内省の目。祈る目(一人称)

5.3歳で57歳の園長に出会い、幼稚園から青年前期を過ごし「念願の医学部入学をしたから」といってかつての園児、K.M君が鎌倉を訪ねてきた。


 17年間、親をハラハラさせて、親から色々な眼差し(まなざし)を引き出して成長してきた。

「今年のクリスマスには受洗しようと思っている」とふと語っていた。

 教会や幼稚園の歩みを見守る「神の目」を感じた。

 彼の目はひたむきで「澄んで」いた。

 全き信頼のあるところで、私たちは目の澄んだ生き方をすることができる。

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