私は毒麦かも知れない(2008 礼拝説教・マタイ)

2008.6.8、明治学院教会(117)聖霊降臨節 ⑤

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)

マタイ 13:24-30

1.イエスが語った毒麦の譬えは、農民の経験に訴え、性急な善悪の区別を保留して、収穫まで忍耐して待つことの中に「神の国=支配」があることを悟らせた話であろうと思われます。

2.この譬えはマタイ福音書にだけあります。「マタイ教団」での信徒の育成に用いられた譬えの寓意的解釈が13章36-43節にあります。

 初代教会は、刈り入れ=世の終わり、畑=世界、良い種=御国の子ら、毒麦=悪い子ら、敵=悪魔と解釈しました。

 この文脈で読むと、最後の審判の時「正しい人々」の中にいることが大切になります。

3.しかし、それはイエスの趣旨ではないでしょう。

 山上の説教のイエスの驚くべき教えと矛盾します。

”父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる”(マタイ 5:45、新共同訳)

 ここでは無条件の慈しみと赦しが示され、逆に「正しい」と主張する人への批判が展開されています。それは、神を自分に引き寄せて自分を絶対化(神)して、自分を相対化する視座(誰とでも交わる可能性)を見失っているからです。

4.青野太潮氏(西南学院大学神学部教師)は、毒麦の譬えの説教(『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』コイノニア社 2016、p.107)で、人は毒麦であったり、良い麦であったりする、と語り、毒麦の自覚こそが、神の無条件の慈しみと赦しを本当に受け入れるために欠かせないのだ、と指摘します。

5.青野さんは、かつて神戸教会の講演で、教会はそれぞれが「批判的主体」となる場だと述べられました。

 絶対「正しい」立場に立つと「批判」にならないで「裁き」になってしまうが、「毒麦的自覚」(まず批判されて然るべきは自分)に立つと、本当の意味での「批判的関わり」ができるというのです。

「裁き」は冷たいけれども「批判」には暖かさがあります。

「批判」の暖かさは、仲良しクラブの温かみとは違って、人を育て、啓発する暖かさです。

「毒麦的自覚」は、自らが謙虚になることによって、多くの交わりを生み出します。

「私は毒麦であるかもしれない」という自覚を持って、教会生活を始め、証しの場を生きてゆきたいと思います。

「待つ・耐える」ことが積極的に響きます。

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