サムエル記上16章1-13節、テモテ一 1章12-17節
2013.11.24、明治学院教会(322) 降誕前 ⑤
(明治学院教会牧師、健作さん80歳)
サムエル記上16章1-13節、テモテ一 1章12-17節
私の骨折入院中、皆さまから祈りの支えとお励ましをいただいた事をまず感謝申し上げます。
完全回復は今年いっぱいかかるので、思い切って(車椅子・松葉杖で)今日から講壇を務める事にいたしました。
まず、今日の聖書テキストですが、これは日本キリスト教団の聖書日課の今日の個所です。聖書を読む場合、病気の時などは詩編を読むと慰め励ましを与えられます。しかし、日課のテキストはこちらの恣意的選択ではなく、こちらの情況を超えて他者性を含んでいます(病院の食事を一カ月少しいただきました。結構病院側のメニューの他者性を味わいました)。聖書の他者性を重んじ日課テキストを選択しました。
旧約の個所は、祭司サムエル(信仰者)が王サウロ(権力者)の殺意にたじろぎながらも主(ヤハウエ・神)の言葉に従ってエッサイの子に油を注ぐ(王として任命する)場面です。
人間の思惑を超えて神は人を召し出し用い給ふということです(現代になぞらえるならば、神は人の計らいを超えて思わぬ人を主の働き人として用いるのです)。
新約の個所は、初代教会の「ある」伝道者・牧会者が後輩の教会の働き人に与えた教訓・励ましです(著者がパウロ、受け取り手はテモテになっていますが、現代聖書学では「偽名書簡」でありパウロより後代の教会の出来事とされています)。
この手紙を全部通読してみると、教会の中に芽生えた「異なる教え」に対する警告や「監督の資格・奉仕者の資格・婦人の役割(今の時代から考えるとフェミニストの激怒を買うでしょう)・老人ややもめへの扱いの心得・み言葉の長老への報酬・奴隷の身分のものへの勧め」など、初代教会がかなり制度化し、複雑な問題を抱えている時代の指導者への指南書のごときものです。
聖書だからと言って現代にそのまま読み込むことはできませんが、初代教会が受け継いできた信仰箇条の中心が記録されています。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。(テモテへの手紙一 1章15節、新共同訳)
「イエス理解と贖罪信仰」は現代キリスト教の大きな課題ですが、今日は触れません。
さて、今日学びたいメッセージは12節後半
この方が、わたしを忠実な者とみなして務めに就かせてくださったからです。(テモテへの手紙一 1章12節、新共同訳)
という箇所です。
著者はかなり熟練した年配の指導者でしょう。しかし、自分が指導者として十分に資格あり・経験ありとは考えていません。
「この方(キリスト・イエス)」が「みなして」と言っています。「みなす」とは、格上げです。もし、本当の牧者がいるとすれば、それは、イエスご自身以外にはいないでしょう。
自分の十字架を負って限り無くイエスの後に従うことにおいて、我々から見て、すごいなと思われる人は沢山います(僕らの子ども時代はシュバイツァー、現代ではマザーテレサでした。明治学院で学んだ賀川豊彦も、忘れることはできません)。
しかし、それらの人も自らはイエス(神)が「みなして」下さってその務めについていると思っていたに違いありません。わたしなど勿論「みなし」つまり神の許容の内でその務めを果たしてきました。
著者は「罪人の中で最たる者(15節)」が受け入れられたと言っています。
「救い」に関わることを「神の受容」と言うなら、「働き」に関わることは「神の『みなし』」つまり「神の許容」のうちにあることです。謙遜にならざるを得ませんし、また自分を卑下する必要もないでしょう。
ありのままを生きていくことが大事なのです。
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